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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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番外編『麗華記』⑤:この記録が、誰かを救うなら

春が過ぎ、初夏の風が墨華宮にも届くようになった頃。


書庫室の空気が、わずかに変わった。


積まれていた帳面が整然と整理され、筆や墨の位置が少しずつ変わっている。

それは、誰かがこの空間に“終わり”を感じ取った証のようだった。


けれど、終わったわけではない。

むしろ、始まったのだ。


雪蘭様が“記録したかった本当のこと”が、ようやく日の目を見たのだから。


◆◇◆


礼部尚書・衛 懐遠の名が公式に裁かれた日。


わたしは、書庫室でひとり、黙ってその知らせを受け取った。


式典には呼ばれなかった。


でも、それでいいと思った。


雪蘭様がその場で、証人として、そして“記録者”として立ったことはわかっている。


何より、その日の夜。


彼女が、帰ってきたから。


いつもと変わらぬ静かな足取りで、墨華宮の扉を開けた。


「おかえりなさいませ」


「……ただいま戻りました」


それだけだった。


けれど、その表情に、微かに緊張の糸が緩んだのを見て。


わたしは心の中でそっと、ひとつの拍手を贈った。


(……やっと、ここまで来たんですね)


◆◇◆


夜、書庫室にふたり。


灯りはいつものように淡く。


湯を沸かし、茶を淹れる。


何も語らずとも、呼吸だけで分かる。


「これで、すべてが終わったんでしょうか」


「……いいえ。記録は、ここからが始まりです」


「誰が何をしたか。誰が何を守り、何を裏切ったか」


「それを、後の人たちが知るために。わたしたちは、書かなければならない」


雪蘭様は、筆を取りながら、そう言った。


その手は、もう震えていなかった。


かつて、涙を浮かべていたあの夜とは違う。


今は、真っ直ぐな意志だけがそこにある。


「……わたし、ここに来て良かったです」


「え?」


「もし、あのまま護衛官を続けていたら、きっと私は“誰かを守ること”しか知らない人間だったと思います」


「でも、今は違う。わたしは、“何を守るべきか”を、考えられるようになりました」


「それはきっと、あなたの隣にいたからです」


わたしの言葉に、雪蘭様は静かに微笑んだ。


その笑みが、すべての答えだった。


◆◇◆


その後、彼女は再び記録を記し始めた。


今度は、月の国のこと。

かつての戦のこと。

そして、失われた者たちの名。


筆の先から溢れるのは、剣ではなく言葉。


血ではなく、真実。


そして、そこにいるのは、もう“幽霊猫”ではなかった。


名を持つ記録官。


帝国の一角で、確かに息づく者。


「雪蘭様」


「はい?」


「……また、次の茶も淹れてもいいですか?」


「もちろん。あなたの茶は、温度がちょうどよくて好きです」


何気ないそのやり取りが、ただ嬉しかった。


(この人はもう、孤独じゃない)


◆◇◆


ある日、雪蘭様がふと、言った。


「記録というのは、誰かを裁くためのものではなくて」


「誰かを救うために、残すものなのかもしれません」


「救われるのは、誰か他人かもしれないし。あるいは、記録を書いた本人かもしれない」


「……私は、どうだったでしょうか」


「……たぶん、両方ですね」


その時、彼女が見せた微笑みが、今でも忘れられない。


幽霊猫と呼ばれていた女は、確かにそこにいた。


そして、わたしの隣で、記録を綴っている。


筆音と、茶の香りと、風の気配。


それが、わたしの新しい日常になっていた。


◆◇◆


この記録が、誰かを救うなら。


わたしは、何度でも筆を執る。


この人の隣で。


この人の言葉と、沈黙を、守るために。


それが、わたしにとっての“記録”という生き方になったのだった。

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