番外編『麗華記』④:風が変わる日
それは、春の風が吹き始めた頃だった。
書庫室の窓がかすかに揺れ、風の音が帳面の間をすり抜けていく。
わたしは棚の整理をしながら、ふと、背中に感じる“気配”に気づいた。
雪蘭様の視線。
けれど、それはいつものような“記録に没頭する眼差し”ではなかった。
何か、言おうとしている。そういう時の静かな、けれど強い眼。
「……麗華さん」
「はい?」
「ちょっとした“翻訳”をお願いできますか?」
「翻訳……ですか?」
手渡されたのは、一枚の手紙。
黄みがかった紙。見慣れぬ文字の走り。
一目見て分かった。これは普通の公文書ではない。
「これ……月の国の書式?」
「よく気づきましたね」
「護衛の頃、押収品の中に似た文字がありました。たしかこれは、“風”を意味する……」
「そうです。“風”と“地”と“影”が重なっています。これは軍略の暗号式。月の旧式です」
旧式――ということは、過去の誰かと繋がる、痕跡。
「これを、私に?」
「あなたには、こういうものを預けられる誠実さがある」
「……ありがとうございます」
声に出すと、なんだかくすぐったい。
(信頼された……)
たった一言で、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
◆◇◆
解読は、思った以上に難解だった。
が、それと同時に、わたしの護衛としての知識や、今までの記録室での経験が活かされていくのがわかった。
筆を動かす雪蘭様の横で、わたしは細かな符号を並べ、意味を読み解いていく。
まるで、同じ書を編んでいるような感覚。
「この符号、“月影の夜”は“計画決行”を意味するのでは?」
「それであれば、次の“沈黙の鶴”は“対象不在”の比喩表現かもしれませんね」
「つまり……この文は、“予定通り、標的は不在だった”という報告書?」
「ええ。おそらく、“誰か”に確実に届くように書かれた、“答え”です」
「誰かって……」
わたしは、息を呑んだ。
「……雪蘭様。この手紙を、誰が書いたんですか?」
彼女は答えなかった。
けれど、答えは書の流れの中に滲んでいた。
(この人は、記録を通じて、戦っている)
(記録の裏にいる、誰かを引き出すために)
そして、それをわたしと“共にやっている”。
◆◇◆
その夜、書庫室の灯りはいつもより遅くまで灯っていた。
「あなたがいてくれて、本当に助かりました」
「……こちらこそ。わたしなんかの力でも、役に立ててうれしいです」
「“なんか”なんて、使わないでください」
「えっ……」
「あなたは、誰よりも物事を正しく見ようとする。言葉を真っすぐ受け止めて、筆先でそれを守ろうとする」
「だから、私はあなたに任せたいんです」
それは、初めての“真っ直ぐな”言葉だった。
そして、わたしは思った。
(この人に、呼ばれたかったんだ)
書庫室に来たとき、感じた屈辱。
護衛から外されたという後悔。
でも――
この人のそばでなら、そのすべてが報われていく気がした。
◆◇◆
風が、変わった。
それはきっと、記録にしか見えない微細な“うねり”。
でも、雪蘭様は確かにそれを感じていた。
そして、わたしにもそれが届いていた。
誰にも気づかれない場所で、記録の風が動き出す。
それは、誰かの嘘を暴く風。
眠れる猫が、静かに爪を研ぐ音。
そして――
「わたしは、あなたと一緒に、この“風”を見届けたいと思っています」
その言葉が、どれほど雪蘭様の支えになったかは、分からない。
でも、彼女が静かに頷いたあの瞬間。
わたしは、ようやくこの場所で“生きている”と思えたのだった。




