最終話:墨華宮の新しい昼寝猫
春の風は、数十年という月日さえも薄く撫でていく。
帝都は変わった。
石畳は磨かれ、門は塗り替えられ、人々の声は少しだけ軽くなった。
けれど、墨華宮だけは変わらない。
華やかな宮殿群の陰にひっそりと佇み、書の匂いと静寂だけを抱えたまま、今日もそこに在る。
その門をくぐった若い娘が一人。
名を、春蘭という。
年の割に背筋がまっすぐで、歩幅も小さく乱れない。
袖をたくし上げ、荷を抱え、きびきびとした足取りで廊下を進む姿は、給仕にしてはどこか凛としていた。
「……ここが、墨華宮」
小さく呟いた声は、期待と少しの緊張を含んでいる。
春蘭は働き者だった。
生まれつき怠けることが苦手で、手が空けば掃除をし、暇があれば帳面を整える。
母も父も同じように働き者で、家は慎ましくもきちんとした暮らしだった。
だからこそ、幼い頃から春蘭は不思議に思っていた。
――なぜ、おばあさんは、あんなに昼寝ばかりしていたのだろう。
忙しい両親の変わりに、よく可愛がってくれたおばあさん。
いつも、縁側でうたた寝をしていて、呼べば目を細めて笑い頭を撫でてくれた。
「働かないの?」
そう尋ねると、おばあさんは、いつも同じことを言った。
「働いてるよ。眠りながらね」
意味が分からなくて首を傾げると、おばあさんは春蘭の額を軽く指でつつき、
「記録ってのはね、剣より強いことがあるんだよ」
そう言って、また眠ってしまった。
春蘭はその言葉が好きだった。
おばあさんは何も持っていないように見えたのに、いつも背中だけは静かに強かった。
だから春蘭は、給仕として宮に上がる日を迎えたとき、なぜか胸の奥で確信していた。
(おばあさまの言葉の意味を、きっとこの宮で知るのだわ)
墨華宮の廊下を歩きながら、春蘭は時折、立ち止まっては柱の刻みや窓の格子を眺めた。
懐かしそうに。
確かめるように。
おばあさんから聞いていた話と、目の前の景色を重ねているのだ。
「この曲がり角の先に、古い梅の木があるって言ってた」
「ここに、風が集まるって」
「ここは猫がよく寝る場所……」
そんな小さな記憶の断片を胸に、春蘭は自分でも不思議なほど迷わずに進んでいった。
◆◇◆
そして、次の日。
墨華宮で、ちょっとした事件が起こった。
事件といっても、血が流れるようなものではない。
けれど墨華宮にとっては、大事件だった。
書庫の鍵が、消えたのだ。
鍵がなければ扉が開かない。
扉が開かなければ帳面が取り出せない。
帳面が取り出せなければ、朝の記録が遅れる。
記録が遅れれば、宮中の歯車が狂う。
書庫番の老官吏が青ざめ、給仕が慌てて床を探し回り、若い文官が扉を叩きながら叫ぶ。
「誰か! 鍵を見た者はいないか!」
その騒ぎの横を、春蘭は盆を抱えたまま通りかかった。
そして、立ち止まった。
しばらく扉の周りを見回し、床を見つめ、棚の端を眺めた。
皆が必死に探しているのに、春蘭は不思議なくらい落ち着いている。
「……鍵、猫が持っていったんじゃないですか」
ぼそっと言った。
その場の空気が止まった。
「は?」
老官吏が情けない声を出した。
春蘭は、扉の脇に置かれた小さな竹籠を指差す。
「この籠、昨日までここになかったですよね。新しい藁の匂いがします」
「猫が寝床を作るとき、気に入ったものを運んでくるって、おばあさまが言ってました」
「鍵は金属だから、光って目立つ。きっと遊びたくなったんだと思います」
半信半疑のまま籠を覗いた文官が、次の瞬間声を上げた。
「……あった!」
籠の奥。
藁の間に、鍵がすっぽりと埋まっていた。
「な、なんだと……!」
騒然とする一同。
春蘭は首を傾げただけだった。
「よかったですね」
それだけ言って、盆を抱え直して歩き出そうとした。
そのとき。
廊下の向こうから、ゆっくりとした足音がした。
静かでありながら、場の空気を変える歩み。
顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。
帝。
暁竜輝。
若くはないが、老いてもいない。
眼差しは鋭く、口元には常に笑みのような影がある。
通りすがりのはずなのに、まるで最初からここに来ると決めていたような雰囲気だった。
竜輝は、鍵を手にした官吏ではなく、春蘭を見た。
「おや」
小さく笑う。
「面白いやつがいるな」
春蘭は背筋を正し、慌ててひざまずいた。
「し、失礼いたしました」
「失礼ではない。今のは“機転”だ」
竜輝はそう言って、近くの文官に目を向ける。
「この娘の名は?」
「は。給仕として昨日配属された、春蘭でございます」
「春蘭。呼び出しを受ける準備をしておけ」
その言葉だけ残し、竜輝は去っていった。
残された人々は呆然とし、春蘭だけが訳も分からず頭を下げ続けた。
◆◇◆
その日の夕方。
春蘭は本当に呼び出された。
麒麟堂の一室に通され、竜輝の前に座らされる。
「鍵の件、もう一度説明しろ」
春蘭はうまく言葉を選びながら、先ほどの推理を繰り返した。
猫の習性。
籠の新しさ。
藁の匂い。
「ふむ」
竜輝は頷き、面白そうに目を細めた。
「猫の気配を読む者はそう多くない。まして墨華宮の猫となればなおさらだ」
「お前、この宮のことを知っているな?」
春蘭は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
「……幼い頃から、うちのおばあさまに聞いておりました。」
「よく寝る方で……いつも猫が寄ってきて」
その瞬間、竜輝の口元が僅かに歪んだ。
笑いとも、懐かしさともつかない表情。
「なるほど」
「では命じる。お前を朕の相談役に任命する」
春蘭は目を見開いた。
「そ、相談役……?」
「そうだ。大層な名だが、やることは単純だ」
竜輝は軽く指を鳴らした。
「墨華宮の書庫係になれ。書を運び、記録を整え、時に朕の前で気づいたことを話せ」
「……かつて、そこにいた者と同じようにな」
春蘭には意味が分からない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
胸の奥が、じんと温かい。
「はい」
春蘭は素直に頷いた。
「よく分かりませんが……頑張ります」
竜輝は笑った。
「よい。分からぬまま受けるのは、案外才能だ」
◆◇◆
数日後。
春蘭は墨華宮の書庫で働き始めた。
棚を拭き、帳面を整え、古い箱を運ぶ。
紙の匂いが、肌に馴染んでいく。
そしてある日。
埃まみれの木箱の中から、奇妙な記録帳を見つけた。
表紙には達筆でこう書かれている。
『宮中猫名簿』
春蘭は思わず笑ってしまった。
「……なにこれ」
頁をめくると、猫の絵のような簡単な印と、毛色や性格、鳴き声の記述が並んでいる。
その筆致が、どこか茶目っ気に満ちている。
『性格、距離感が悪い。近づくくせに逃げる』
『名、団子。理由、丸い』
ふっと息が漏れる。
(こんな記録、誰が……)
さらに奥へ進むと、追記があった。
『皇帝、猫を嫉む。筆者、非常に疲労す』
春蘭は、指先でその文字をなぞった。
胸の奥で、何かが静かに確かになる。
(この記録者は……)
(おばあさまだわ)
あの昼寝ばかりしていた人。
眠りながら働いていると言った人。
猫がよく寄って、いつも風を見ていた人。
春蘭は、そっと箱を閉じた。
そのとき。
足元に、柔らかなものが触れた。
見下ろすと、白い猫が一匹。
さらにもう一匹。
黒い猫が、棚の陰から顔を出す。
気づけば、いつの間にか数匹の猫たちが春蘭の周りに集まっていた。
まるで、彼女がここにいることを最初から知っていたみたいに。
春蘭は膝を折り、猫の頭をそっと撫でた。
「……おばあさまの周りにも、よく猫が寝ていたな」
窓の外を見る。
淡い光。
風が梅の枝を揺らす。
春蘭は空を見上げ、軽く微笑んだ。
この場所は、終わっていない。
記録は、まだ続いている。
眠る猫の物語は、誰かの胸に残り、時を越えて次の猫を呼ぶ。
墨華宮には、今日も静かな筆の音がある。
そしてその音の傍らで、猫たちは丸くなり、春蘭もまた、ページをめくる。
おばあさんが残した“記録”を、嬉しそうに辿りながら。
――本当の終わりは、こんなふうに始まるのかもしれない。
静かで、温かくて、少しだけ可笑しい終わり方で。




