第二十七話:金 逸臣、帰還
冬の終わりを告げる風が、都を吹き抜けていた。
東門をくぐる旅人たちは、冷たい空気に肩をすくめながら、それぞれの目的地へと急いでいく。
その流れの中に、ひとり、あまりに目立たぬ男がいた。
――金 逸臣。
帝国の記録では、すでに死んだことになっている男。
月の国の名門、金家の次男。
そして、“影の将軍”。
彼は今、再び都の土を踏んでいた。
褐色に焼けた肌。
旅に擦り切れた衣。
腰に下げた小さな墨壺。
その姿に、かつての威光はない。
だが、その歩みには、確かな意志の重みがあった。
(……戻るつもりは、なかった)
(だが、呼ばれた)
数か月前。
地下牢で、あの女と再会するまでは。
◆◇◆
その地下牢は、湿り気と鉄の匂いに満ちていた。
鎖に繋がれた男の前に、ひとりの文官が立った。
白い衣。
静かな足取り。
その目を見た瞬間、逸臣は理解した。
――生きている。
そして、覚えている。
「……久しいな」
月の国の言葉だった。
誰にも通じぬ、失われた言語。
雪蘭は、同じ言葉で答えた。
「ええ。……生きていましたね」
その夜、二人は長く語った。
声を潜め、月の言葉で。
金家のこと。
病弱を理由に寺へ送られた幼少期。
父と兄が戦場で果てた日のこと。
そして、礼部尚書・衛 懐遠の名。
月の国を、内側から売った男。
遅効性の毒。
援軍の遅延。
偽の命令。
すべてを、雪蘭は聞き取った。
記録官として。
そして、亡国の民として。
「……だから、あなたを“逃した”」
雪蘭は、地下牢でそう告げた。
「表向きは追放。実際には匿う。そして、あなたの手で、月の暗号を使った手紙を書いてもらう」
「裏切り者だけが理解できる暗号です。……必ず、食いつく」
逸臣は、その策を聞き、しばらく黙っていた。
「私は、復讐のために生きてきた」
「だが……それでは、月は戻らない」
「お前の策に、乗ろう」
そうして、彼は“逃げた”。
◆◇◆
そして、今。
金 逸臣は、証言者として都に戻ってきた。
墨華宮、書庫室。
「……来ましたね」
雪蘭は、書を整えながら静かに言った。
「風が変わったでしょう」
麗華は小さく息を呑んだが、何も言わなかった。
廊下に足音が響く。
扉が開く。
逆光の中に立つ男に、雪蘭は立ち上がらなかった。
再会は、もう済んでいる。
「準備は、できています」
それだけを告げた。
逸臣は、短く頷いた。
◆◇◆
御前会議。
重臣たちが居並ぶ中、証言者として名が呼ばれる。
「――金 逸臣」
ざわめき。
死んだはずの名。
だが彼は、堂々と前へ進み出た。
「私は、金家の次男」
「月の国にて生まれ、寺に送られ、生き延びた」
「そして、影として動いた」
逸臣の声は、静かだった。
「だが、真の裏切り者は私ではない」
「礼部尚書・衛 懐遠。……この男です」
提示される暗号文。
月の禁書院でのみ使われた書式。
それを“正しく読めた”事実。
すべてが、懐遠を指し示していた。
言い逃れは、もはや不可能だった。
「……衛 懐遠。帝を欺き、国を売った罪により拘束する」
兵に連行される背中を、逸臣は黙って見送った。
◆◇◆
その後。
飛燕帝は告げた。
「金 逸臣。そなたは影に生きた。だが、その影をもって、帝国の膿を暴いた」
「功を認め、命を赦す。証人として、そして記録の補佐として仕えよ」
逸臣は、深く頭を下げた。
「……畏まりました」
◆◇◆
夜。
書庫室で、雪蘭は筆を取る。
「影の将軍、金 逸臣」
「金家次男。記録より零れ落ちし者。真実を語りし証人」
逸臣は、隣で墨を磨いていた。
「これで、終わりではないな」
「ええ。……正史を書くまでは」
「ならば、まだ眠れぬな」
雪蘭は、わずかに笑った。
墨華宮の昼寝猫は、今日も目を閉じない。
真実が、すべて記されるその日まで。




