第二十六話:眠らぬ猫
冬の朝は、光の届く速度が遅い。
墨華宮の書庫にも、陽はまだ差し込まない。
しかしその暗がりの中で、ひとつの息遣いだけが静かに響いていた。
「……眠れなかったのですね」
麗華の声に、雪蘭はゆっくりと目を開けた。
書簡と書物に囲まれた机にうつ伏せたまま、ほとんど寝返りも打たずにいた。
「ええ。でも少し、夢を見ていました」
「どんな夢ですか?」
雪蘭は小さく笑い、頬杖をついて座り直す。
「……昔、父と見た夜空の夢です」
「月の……?」
「はい。あの国の空は、星がよく見えました。月の形で時節を読み、暦を刻んだ。……でも、いつからか私は“月”を見なくなっていた」
彼女はそっと、墨壺に筆を浸す。
淡く、墨香が広がった。
「今思えば、私はあの夜空に背を向けることで、この国の軍師として立っていたのかもしれません」
麗華は答えなかった。
ただ、彼女の横に座り、黙って寄り添う。
「でも、もう逃げません。……私の役目は、終わりではなく、“始まり”を作ることです」
雪蘭は、筆先を持ち上げると、一枚の文書に署名した。
それは、皇帝陛下への“最終報告書”。
衛 懐遠の罪状、月の密約、証拠の三点。
そして最後に――
「……金 逸臣、都に帰還」
その文字を見た麗華が、わずかに目を見開いた。
「彼が、帰ってくるのですね」
「ええ。……彼はまだ、生きている。ならばこの物語を“語る者”として、彼の証言は不可欠です」
麗華はそっと息を呑んだ。
「それは……陛下の前で?」
「はい。陛下の御前で、“真実”を語ってもらいます。そして、それを記録として残します。……これは、復讐ではなく、記録です」
雪蘭の目には、静かな決意が宿っていた。
「月の国の最期を記す“正史”の始まりです」
◆◇◆
その日の午後、皇帝の御前会議にて、一通の極秘文書が披露された。
そこには、雪蘭の筆による報告とともに、密約の写し三点。
そして、それらがいかにして集められ、誰がそれを隠蔽し、誰がそれに抗ったのか。
全てが詳細に記されていた。
会議の空気は重く、誰も声を発しなかった。
中には、かすかに震える声で異議を唱えようとした者もいたが、宰相の一睨みによって、その声はすぐに途絶えた。
「……衛 懐遠の処遇は、いかがいたしましょう」
誰かが口を開いたとき、皇帝はただ一言だけを返した。
「本人の口から、真実を聞く。……それからでよい」
それは、かつてないほどの“猶予”だった。
だが、それを与えられた懐遠の表情は、限りなく無表情だった。
疲弊しきったその顔は、もはや国の中枢に君臨していた頃の面影をほとんど残していなかった。
ただ一つ。
彼の瞳の奥に、ほんの一滴だけ、かつての“正義”の光が残っていた。
◆◇◆
その夜。
月明かりの下で、雪蘭は一人、書庫の屋根に登っていた。
「……ここに登るの、久しぶりですね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
庭の紅梅が、まだ咲ききらぬ蕾のまま、冷たい風に耐えていた。
「もうすぐ、彼が帰ってきますね。……金 逸臣」
名を呼ぶ声に、どこか懐かしさが混ざっていた。
「あなたにとって、私は裏切り者だったでしょう。けれど、あの時の私は……私なりに、国を守ることしかできなかった」
自嘲のように、笑う。
「あなたが帰ってきたら、私はあなたに“謝らねば”なりません。そして、あなたには“語って”もらわねばなりません」
語ること。
記録すること。
それが、残された者の責務。
「……そして、私は、眠りたいのです」
ようやく、深く。
心から。
雪蘭の背に、そっと布をかける音がした。
振り返れば、そこに麗華がいた。
「――風邪をひきますよ」
「ふふ……ありがとう、麗華」
「いえ。私は、あなたをまだ寝かせません。あなたが真実を届けるまで、私は隣にいますから」
「……頼もしい」
雪蘭はそっと、星空に目を戻した。
遠い遠い月の形をした雲が、静かに浮かんでいた。
「眠らぬ猫は、もうすぐ眠る時が来るでしょう。……でも、それまではまだ、少しだけ、爪を研ぎ続けねばなりません」
その瞳に宿る光は、まだ消えていなかった。
◆◇◆
数日後。
帝都に、ある一人の男がひっそりと戻ってくる。
その名は、金 逸臣。
かつて月の国の将であり、帝国に処刑されたはずの“亡霊”。
だが彼は生きていた。
その身を隠し、すべてを見届ける者として、ひそやかに息を繋いできた。
その帰還が、すべての記録を完結させる。
雪蘭の戦いは、ついに最終局面を迎えようとしていた。




