表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/40

第二十八話:正史の筆先

書庫室に、筆の音が響いていた。


さらり、さらり。


墨を含んだ筆先が紙を滑るたび、夜の静寂が深まっていく。


「……本当に、全て書くのですか?」


麗華の問いに、金 逸臣は目を上げずに答えた。


「ええ。ありのままを。……たとえ、それが自分にとって不利であっても」


「それは、“正史”だから?」


「違います。“記憶”だからです」


雪蘭が、焚かれた香の煙越しに彼を見つめていた。


その瞳には、既に怒りも、痛みもなかった。


ただ、見届けようとする意志だけが残っている。


「私たちはもう、過去を裁くのではなく、未来の礎にしなければならない。そうでしょう?」


逸臣は、しばらく黙っていた。


そして、筆を置いた。


「……あの日。私は、自分が“正義”だと思っていた」


「我が国の民を救うため、帝国に屈せず、抗い、立ち向かうこと。それこそが忠義であり、誇りであると」


「けれど、実際には何も守れなかった」


「戦火は広がり、民は巻き込まれ、城は焼かれ、文化は奪われた」


「私が手を握ろうとした“勝利”は、ただの焼け跡だったのです」


静かな声だった。


だが、その言葉は一字一句、重く響いた。


「……私は、敗者です。けれど、だからこそ記さねばならない。私たちが何を願い、何を間違え、何を残そうとしたのか」


雪蘭は頷いた。


「そして、私はその記録を、帝の前に届けます」


「“敵”として語られる前に、“人”として語られた記録を」


「それが、あなたの贖罪であり、私の責務です」


逸臣は苦笑した。


「……変わりませんね、雪蘭は」


「あなたも。変わらないからこそ、こうして筆を執れるのでしょう?」


◆◇◆


翌朝。


御前会議が開かれた。


帝、飛燕が玉座に座すなか、朝陽が金の飾りを照らし出す。


その場には、宰相以下、三卿九卿が一堂に会していた。


重苦しい空気のなか、白衣に身を包んだ雪蘭が進み出る。


その手には、三冊の記録。


一つは、衛 懐遠の罪状を記した報告書。


一つは、金 逸臣の記録した「月影終焉記」。


そして、もう一つ。


「これは、帝国と月の民との間に結ばれた“影の歴史”でございます」


そう言って、雪蘭は記録を差し出した。


飛燕は、それを一瞥する。


「読ませよ」


宰相の声に従い、官吏が記録を読み上げる。


その声は、淡々としていた。


だが、内容は鋭く、重く、胸に突き刺さるものだった。


帝国の勝利の裏にあった密約。


裏切り。


沈黙。


そして、処刑された者たちの“名”。


「……李 遼、斬首」


「……蘇 芝、獄死」


「……文官七名、連座により流罪」


名が読み上げられるたびに、場の空気が震えた。


それらの名の中に、聞き覚えのある者があったのだ。


そして、金 逸臣の記した最後の言葉。


「――我ら、敗れたりといえども、志を失わず。

筆にて語ることこそ、未来への忠義なり」


読み終えた官吏が静かに頭を下げた。


会議の場は、しばし沈黙に包まれる。


誰もが、かつて語られることのなかった“歴史”の重さを、受け止めていた。


飛燕は、雪蘭に目を向けた。


「李 雪蘭。……そなたは何を願う」


問われた雪蘭は、すっと一礼した。


「この記録を、帝国の正史に加えることを願います」


「かつて我が国に敗れた“月の影”のことを、“影”のままにせぬために」


飛燕は、しばらく沈黙した。


その瞳は、深い森のように読めなかった。


だが、やがて短く頷いた。


「――よい。記録せよ。これは“敗者”の声にあらず。“国”の記憶とせよ」


その言葉は、重く、そして温かかった。


◆◇◆


会議が終わり、宰相が雪蘭の肩に手を置いた。


「……よくぞ、ここまで辿り着いたな」


「宰相殿のご助力があってこそ」


「違う。おぬしの目が、眠っていても決して曇らなかったからだ」


雪蘭は笑った。


「眠っているようで、ちゃんと聞いていますから」


「それは、やはり“猫”だな」


ふたりは、ふっと笑い合った。


その笑いが、どこか懐かしいものに思えた。


◆◇◆


夜。


書庫室に戻った雪蘭は、机に新たな帳面を開いた。


それは、帝国で正式に用いられる記録帳。


見開きには、金 逸臣の記録が筆写されている。


その下に、彼女は静かに一文を添えた。


「――歴史とは、眠らぬ猫の眼に宿るものなり」


筆を置いたその瞬間、外から一陣の風が吹いた。


まだ冷たいが、どこか春の香りを孕んでいる。


雪蘭は目を閉じた。


「……もう、眠ってもよろしいでしょうか」


誰に問うでもなく、静かに微笑んだ。


けれど、机の隅には、まだ筆が一本、墨を含んだまま置かれていた。


眠らぬ猫の物語は、もう少しだけ続くのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ