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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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第二十五話:証人の名は

昼下がりの礼部庁舎には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。


文書を運ぶ官吏たちはどこか急ぎ足で、帳簿を確認する筆も、わずかに震えを孕んでいる。


誰も声に出さないが、全員が“何か”を察していた。


――衛 懐遠は、追い詰められている。


誰よりも礼儀を重んじ、規律に厳しく、長年宮廷を支えてきた文官。


だが今、その背に黒い影が差していた。


それは噂でも、童歌でもない。


――証拠。


そして、沈黙。


いつもは彼を囲んでいた同僚たちが、今は目を合わせようともしない。


中には、明確に彼から距離を取る者も現れはじめた。


(裏切ったな)


懐遠は、そう思いながらも、顔には出さなかった。


ただ静かに、机の上の文書を片付けていく。


筆を置き、印を押し、処理済みの束を脇に積む。


まるで、何事もないかのように。


だがその胸の内は、荒れ狂う嵐だった。


(いつからだ)


(どこで誤った)


(私は――間違っていたのか)


――否。


懐遠は、心の中で首を振る。


(私は、ただ帝国の安定のために動いたのだ)


(月の民が帝国に仇なすことを恐れた。だから先に手を打った。それだけのこと)


(犠牲は、必要だった)


その理屈は、もはや誰にも届かない。


けれど彼は、その言葉だけを盾に、ぎりぎりの理性を保っていた。


しかし、もうそれすら限界だった。


◆◇◆


「――女を、殺してもらえないだろうか」


その言葉を聞いた時、男は耳を疑った。


礼部尚書、衛 懐遠。


かつては一声で地方官の運命を左右し、帝国の儀礼すべてを掌握した男が、今、頭を下げていた。


「……報酬は、いくらでも出す。誰にも悟られぬよう、あの書庫室の軍師を……“消して”ほしい」


闇の世界に通じた男、地龍幇の残党、葉 玄明。


懐遠は、かつて礼部の印綬を用いて、この男を密偵として使っていた。


だが今や、逆に縋らねばならぬほど追いつめられている。


「尚書様……あなたともあろう方が、こんな“露骨な”依頼を……」


玄明の声音には、明確な侮蔑と笑みが混ざっていた。


「その“軍師”に、ここまで追い込まれたのですか」


「……私は、彼女の正体を知らなかった。まさか月の残党が、帝の側近にまで入り込んでいたとは……」


懐遠は、もはや余裕のない目で言う。


「もし彼女が陛下に密書を渡せば……私は終わる。ならば、その前に……」


玄明はしばし沈黙し、やがて指先で杯を傾けた。


「……受けましょう。だが条件があります」


「何だ」


「あなたが、直接“罠”を仕掛けてください。あの軍師は、ただ暗殺者を差し向けただけでは動きません。彼女を“誘い出す”必要がある」


懐遠の顔に、わずかに動揺が走る。


だが頷くしかなかった。


「……わかった」


「場所は、書庫室の裏庭。宵の頃、護衛を外した時間を見計らって動きます。……ただし、失敗したら、私にも手出しはできませんよ」


玄明はにやりと笑い、杯を空にした。


◆◇◆


その日の夕暮れ、墨華宮の空には、濃い朱が広がっていた。


書庫室の裏庭は、ちょうど風の通り道にあたるため、庭木の葉が静かに揺れている。


「……不自然ですね」


そう呟いたのは、麗華だった。


彼女は書庫室の屋根裏に潜みながら、視線を巡らせていた。


「この時間帯に、尚書が単独で庭を通るなど、かつて一度もない」


「ええ。私を誘っていますね」


雪蘭はすでに、身動きしやすい軽装に着替えていた。


彼女の眼差しは冴えていたが、その瞳の奥に微かな哀しみが宿っていた。


「……麗華。もし何かあれば、火を上げて」


「何かあった時は、私が斬ります」


「ふふ……頼もしい」


雪蘭は笑い、そっと庭へ降り立った。


◆◇◆


「……衛 懐遠殿」


裏庭の中央。


月明かりの下で、二人は向き合った。


懐遠の手には、何もない。


だがその目は、すでに覚悟を決めた者のそれだった。


「私に、何の用ですか」


雪蘭の問いに、懐遠はわずかに目を伏せる。


「……あの文書を、どこで手に入れた」


「答える義務はありません」


「そうか」


懐遠はゆっくりと歩み寄る。


「では、あなたに問おう。……あなたがやっていることは、復讐なのか? それとも、正義なのか?」


「正義です」


即答だった。


「私たちは、真実を明らかにしようとしているだけ。……あなたの行為は、月の民を犠牲にし、帝国に“表面的な安定”をもたらしただけに過ぎない」


「黙れ……!」


懐遠が初めて、怒声を発した。


「私は……私は、ただ……!」


その瞬間だった。


闇の中から一閃。


投げられた短刀が、雪蘭の首筋を狙う。


だが、次の瞬間。


カン、と甲高い音と共に剣が振るわれた。


麗華だった。


屋根裏から飛び降りた彼女の一閃が、暗殺者の武器を弾き、その身を地に叩きつける。


「……すでに読んでいましたよ、尚書様」


雪蘭の声は冷静だった。


「あなたが、私を消そうとすることも。使うであろう刺客の名も。……すべて、手の内でした」


懐遠は、言葉を失って立ち尽くす。


その顔からは、もはや威厳も矜持も消えていた。


ただ、齢を重ねた一人の男が、自らの罪に引き裂かれているだけだった。


「……なぜ」


かすれた声が漏れる。


「なぜ、私は……ここまでして、否定されたのか……」


「それは、あなた自身が知っているはずです」


雪蘭は、静かに言った。


「“正しさ”は、誰かの犠牲の上にあってはならないのです」


懐遠の膝が、地に落ちた。


その姿はまるで、崩れた仮面のようだった。


◆◇◆


翌日。


礼部尚書、衛 懐遠はすべての職を辞し、自ら出仕停止を願い出た。


宰相の判断により、御前尋問の後、その処分が決定される見込みだという。


宮廷は、また一つ、大きな音を立てて揺れた。


その夜、墨華宮の書庫室では、雪蘭がひとつ深く息をついていた。


机の上には、破られた仮面の破片のような紙片が並んでいた。


「麗華」


「はい」


「これで、ようやく“対話”ができるかもしれませんね」


「帝と、月の亡霊たちの間に?」


「ええ。そして……私自身とも」


雪蘭はようやく、短い眠りへと落ちていった。


その寝顔は、今までよりもほんの少し、穏やかに見えた。

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