第二十四話:雪蘭、罪を問う
書庫室には、久方ぶりの静寂が戻っていた。
それは、いつもの安らぎに満ちた眠気を誘う静けさではなかった。
まるで大嵐の前に、一瞬だけ訪れる無風の空白。
その中心で、李 雪蘭は、ただ一枚の書を前に、動かなかった。
「……これが、すべての始まりだったのですね」
彼女の指先が、黄ばんだ紙に触れる。
それは、密室から回収された金属箱に収められていた文書。
月の国の陥落を早め、帝国の勝利を決定づけた――
裏切りの証、銀梅花の密約。
その筆跡は鮮やかに残されていた。
そこには、衛 懐遠と帝国軍の間で交わされた、実に具体的な“契約”が記されていた。
西門への援軍遅延。
軍の布陣。
補給路の遮断。
密使の経路。
さらには、民衆への“誤情報”の拡散に至るまで。
細かく、精緻に。
まるで一つの戦略書のように、それは記されていた。
読み進めるごとに、雪蘭の胸の中に、冷たい氷のような怒りが積もっていく。
彼女が守ろうとした国。
信じていた体制。
支えていた将。
それらすべてが、この一枚の紙の裏で、無惨にも切り捨てられていた。
「……金 逸臣は、最後まで“国のため”だと信じていたのですね」
傍らで見守っていた麗華が、静かに呟いた。
「それがたとえ誤解だったとしても、彼は自らの信じる正義のために動いた。けれど、この文書に記された“正義”には、誰の命も、誰の感情も、記されていない」
「……そう。ここにあるのは、ただの計算だけ」
雪蘭は唇を噛む。
「誰が何人死ぬか。どれほどの時間を稼げば、帝国が得をするか。……命の数字化、正義の換算。こんなものが……“政治”だというのなら……」
彼女の言葉が途中で途切れる。
握った指先に力が入りすぎ、古文書がわずかに破れた。
「……私は、それでも“軍師”でいられるのか」
麗華は答えなかった。
ただ、その肩に手を置くだけだった。
◆◇◆
同じ頃、衛 懐遠は、かつてないほどの圧力に晒されていた。
宰相からの呼び出し。
皇帝からの視線。
同僚たちの沈黙。
どれもが、無言の包囲網を形作っていた。
「尚書。……陛下より、御前会議への出席命令が届いております」
「……何の件か」
「月の国の元文官、李 遼殿の復権人事に関する、諸役との調整と」
「……そうか」
懐遠は小さく頷く。
だがその指先は、わずかに震えていた。
敵は姿を見せない。
ただ、四方八方からじわじわと、彼の領分を蝕んでくる。
この数日間で、三件の密書が何者かの手で焚かれていた。
さらに、倉庫火災という名目で、旧い記録が次々と“発見”されている。
しかもそれらは、何故か自らの名が書かれた文書に限って燃え残っていた。
まるで、見せしめのように。
(……“誰か”が、全てを知っている)
懐遠はようやく悟った。
敵は、ただの復讐者ではない。
これは、完全に計算された包囲戦。
ただの噂。
ただの童歌。
ただの文官人事。
それら一つ一つは無害に見える。
だが、それらが“誰か”の意図のもと、系統立てて仕組まれたとすれば。
この戦は、すでに彼が“戦える”領域を超えている。
「……馬鹿な。私は……私は間違っていない。正義のためだった。……この国の未来のために、私が……」
呟きは、空気に溶けて消える。
答える者はいない。
自分を支えていた正義が、今、音もなく崩れていく。
◆◇◆
夜。
雪蘭は再び、密約文書を机に並べていた。
金 逸臣の証言。
舒 春蘭の写し。
そして、密室から発見された現物。
三つの“証拠”は、互いに矛盾することなく、ぴたりと合致していた。
「……この整合性は、強すぎるくらいですね」
麗華が眉をひそめる。
「確かに。だが、逆に言えばこれ以上の証明はない。今、もし陛下に提出すれば、尚書の処分は決定するだろう」
「それで、良いのですか」
雪蘭の声が、わずかに揺れた。
「私たちがここまでやってきたのは、復讐のためではありません。正義の名のもと、真実を明らかにし、同じ悲劇を繰り返させないため……そうでしょう?」
麗華は静かに頷いた。
「だからこそ、ここで“終わらせる”ことが必要なのですね」
「……ええ。終わらせるために、私はこの罠を仕掛けた」
雪蘭はゆっくりと立ち上がる。
「あと一歩。……あの男が“自らの口で”認める。それを引き出せれば、もう誰も、この証拠に異を唱えることはできない」
「陛下の御前で、ですか?」
「いいえ。……月の国の亡霊たちの前で、です」
雪蘭の瞳が、凛とした光を帯びる。
「……私は、あの男に“謝罪”をさせたいのです。過ちを過ちとして認めさせ、それを記録に残す。それこそが、我々が月の国に返せる、最後の弔いなのです」
麗華は、短く息を飲んだ。
そして、深く頷いた。
◆◇◆
夜明け前。
書庫室には、いつもの香が焚かれていた。
けれど、雪蘭は一度も目を閉じなかった。
眠るには、まだ早すぎる。
物語は、ついに終章に差し掛かっている。
残された時間は、もう多くない。
けれど、その手に掴んだ“真実”だけは、決して揺るがない。
雪蘭はそっと筆を取り、命じた。
「――金 逸臣を、都に戻しなさい」
眠らぬ猫の最終戦が、今、始まろうとしていた。




