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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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第二十三話:風と共に還る者

宮廷は、静かな騒乱に包まれていた。


人々の口には出ぬが、視線の端に確かな異変が宿っていた。


何かが、動いている。


いや――何者かが、密やかに、しかし確実に“何か”を仕掛けている。


その気配が、じわじわと官僚たちの背筋を撫で始めていた。


「……おかしい」


そう呟いたのは、尚書省に籍を置く若き吏部の官吏だった。


「ここ最近、妙に月の国出身の者が重用されていないか?」


「陛下の思し召しだろう。多様な民を取り立てると、常々おっしゃっていた」


「いや、それだけではない。子供たちが歌っているあの童歌――お前も聞いたろう。“裏切りの鳥”とか“銀の花”とか。あれは月の旧家に伝わる文様だ」


「まさか。今さら、そんな亡国の話など……」


「だが、何かが始まっている気がする。誰かが、礼部尚書を狙っている」


囁きは、徐々に波紋のように広がっていた。


誰が仕掛けているのかはわからない。


だが、礼部尚書の衛 懐遠がその中心にいることは、誰の目にも明らかだった。


◆◇◆


「落ち着きませんね」


麗華は、書庫室で本を開きながらも、その声に苛立ちを隠せなかった。


「街の噂はすでに礼部尚書の耳に届いているでしょう。……それでも尚、直接動かないとは、あの男も大した肝です」


「いいえ、動いていますよ。静かに、しかし確実に」


雪蘭は頬杖をついたまま、窓の外を見ていた。


庭の木々の隙間から、小鳥が枝を渡る姿が見える。


その目は眠たげだが、内心は鋭く張り詰めている。


「彼は今、証拠を消しに動いています。過去の痕跡、接触した密偵、古い文書。……すでに三ヶ所、尚書に近い役人が“病死”しています」


「……やはり殺したか」


「ええ。けれど、彼が痕跡を消せば消すほど、我々の罠が浮かび上がってくる。あとは……背後を断つだけ」


雪蘭はそう言いながら、巻物の裏面にさらりと筆を走らせた。


それは“ある人物”の名を記した短い文。


麗華がその名を目にした瞬間、瞳を細める。


「……確か、月の国にいた頃、礼部尚書と深く関わっていた侍女ですね」


「はい。現在は内廷の雑務に回され、ほとんど誰とも口を利かない。……けれど、尚書に仕えていた当時、密使の手紙を管理していたのは、彼女です」


「連れてくるか?」


「いいえ。彼女の方から来てもらいます」


雪蘭はにっこりと微笑んだ。


その微笑みは、あまりに冷ややかで、そして正確だった。


◆◇◆


衛 懐遠の周囲に、また一人、また一人と、人がいなくなっていった。


いつも寄っていた同僚たちは顔を見せなくなり、挨拶をしても曖昧に頭を下げるだけ。


昨日まで共に笑っていた者たちが、今はまるで、腫れ物に触るように距離をとる。


それは決して表立った非難ではなかった。


ただ、小さな変化が積み重なり、まるで空気そのものが彼を拒絶しているようだった。


彼は知っていた。


これは“何者か”の意図的な操作だと。


彼らの中に、自分を疑っている者がいる。


では、誰が――誰が、これを操っているのか。


(……月の残党か?)


彼は書棚の奥から、一通の古い書状を取り出した。


それは、かつて金 逸臣と結んだ“約定”の写し。


絶対に表に出してはならぬ罪の記録。


だが、これすらも、今や誰かに見られているのではないかと、そう思わずにいられない。


かつての自信。


すべてを見下ろし、操ってきたという確信。


その鎧が、今は軋みを上げて崩れ落ちようとしていた。


「……くそ」


老いた指が、机を叩いた。


その手の震えは、もう隠しきれなかった。


◆◇◆


夜。


ある侍女が書庫室を訪ねてきた。


年老いたその女は、静かに扉を開け、雪蘭の前で頭を下げた。


「……お初にお目にかかります。私は元・礼部尚書付きの侍女、舒 春蘭と申します」


「ご足労、ありがとうございます」


雪蘭は微笑みながら、そっと茶を差し出す。


春蘭はそれを受け取り、指の震えを隠すようにしながら、しばし沈黙した。


やがて、その口が静かに開かれる。


「……あの方は、間違えたのです」


「はい」


「最初は、ただ月の国を守るためだったと申しておりました。戦の回避を願い、帝国との橋渡しをしたと。……でも、次第に変わられました。立場を守るために、他人を切り捨てるようになり……やがて、自分すら信じられなくなった」


「その末が、今の彼なのですね」


春蘭は静かに頷いた。


「もし、あの方が破滅することで、この国に新たな風が吹くのであれば……どうか、お役立てください」


彼女は一枚の紙片を差し出した。


それは、密約を示す“第三の写し”。


金 逸臣の持つものでも、懐遠の隠し部屋のものでもない。


春蘭が、密かに自らの良心のためだけに残していた写しだった。


雪蘭はそれを手に取り、深く頭を下げた。


「……あなたのその想い、必ず正義に変えてみせます」


その声は、軍師のものではなかった。


かつて月の国で、誰よりも清廉に生きようとした、ひとりの文官の娘の声だった。


◆◇◆


三日後。


宮中の一角にて、麗華の指揮のもと、礼部の古い倉庫が“火災”により焼失した。


保管されていた古文書の多くが灰となり、衛 懐遠の部下たちは慌てふためいた。


だが、焼け跡からは、奇妙な金属箱が一つだけ、なぜか無傷で発見された。


中に納められていたのは――


かつて月の国と帝国の間に交わされた“闇の契約”の原文であった。


「……さて、これで証拠は三つ。逃げ場はもうありませんね」


雪蘭はその夜、久しぶりに短く眠りに落ちた。


昼寝猫の戦は、いよいよその牙を剥こうとしていた。

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