第二十二話:猫は眠らぬ
静寂が、礼部尚書の執務室に満ちていた。
午後の陽が障子越しに差し込み、帳簿の端をほのかに照らしている。
だがその光の温もりは、そこに座る一人の老官僚の心には届かなかった。
礼部尚書、衛 懐遠は、茶を一口含むと、何も言わずに吐き出した。
「……味がせぬな」
淡く笑う彼の顔には皺一つ乱れがない。
だが、彼の胸の内では小さな疑念が、いつの間にか形を持ち始めていた。
――逃げた?
信じがたい報告だった。
“処刑されたはずの”金 逸臣が、生きていた。
密かに都のどこかに潜み、誰かに宛てた密書が、闇市場で発見された。
それだけならば、誰かの悪戯とも思える。
だが、その手紙には見覚えのある符号が含まれていた。
月の民にしか解読できぬ、亡国の古き文字列。
衛 懐遠は、心の奥に長らく沈めていた一抹の恐怖を、再び直視する羽目になった。
(……なぜ今、この名が現れる)
冷や汗が、背を伝う。
この宮廷で、月の国を売った裏切り者が誰かを知る者はほとんどいない。
そのはずだった。
自分が動いたのは、もう十年以上も前のこと。
その証拠はすべて葬り去ったはずだった。
なのに、なぜ今さら、亡霊が手を伸ばしてくるのか。
「尚書。……先ほど、陛下が新たな人事をお決めになったそうです」
侍従の報告に、懐遠の眉が微かに動いた。
「……今度は、誰だ」
「月の国出身の儒官、李 遼という男。かつて礼部に籍を置いていた者で……」
「李 遼?」
懐遠の目が細くなる。
かつて自らが左遷させた、月出身の文官の名だった。
あまりに正義感が強く、帝国に仕えながらも、月の独立を願っていた男。
その理想は鬱陶しかったが、剥き出しの敵意ではなかった。
だからあの時、自分は彼を遠くの州へ飛ばすに留めた。
だが――それが今、陛下の直臣として戻ってくる?
それは、ただの偶然か。
それとも、何者かの“手”か。
懐遠の胸の奥に、またひとつ、針のような痛みが走った。
◆◇◆
同じ頃、墨華宮の書庫室では、雪蘭がふわりと欠伸をしながらも、指先はひたすら巻物をめくっていた。
椅子の上には枕代わりの書が三冊。
足元では猫のように胡座をかく。
机上には、まだ乾ききらぬ墨の匂いが漂っていた。
「……尚書様、そろそろ動く頃合いです」
その声に、麗華が顔を上げる。
「目星は?」
「もう少しです。彼は決して自分から罪を犯すような真似はしません。けれど、追いつめれば……何かしら“動き”を起こす」
雪蘭は細筆で一枚の絵図を描き始める。
そこには都の中心から幾本もの赤い線が伸びていた。
「亡霊の密書は、ただの種です。その芽が、どこに伸びていくか。彼の反応が、そのまま罠の形を教えてくれます」
麗華は感心したように唇を引き結ぶ。
「……恐ろしいお方だ」
「褒め言葉として受け取ります」
雪蘭の声は淡々としていた。
だがその目は決して笑っていない。
この策は、相手を追い詰める。
逃げ場を潰し、疑念の渦に引きずり込む。
ゆえに、一歩間違えれば敵の最後の悪あがきに巻き込まれる。
それがわかっていて、彼女はそれでも手を緩めなかった。
(私情など挟まぬ。……これは、私の責務)
雪蘭はそう自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥では違う声が囁いていた。
――あの男が、最後に口にした“裏切り”という言葉。
それが、彼女の心に深く刺さり続けていた。
自分が捨てた国。
その国を売り、踏みにじった者が、今もこの国の中枢に生きている。
ならば――その亡霊を、この手で葬らねばならぬ。
◆◇◆
礼部尚書、衛 懐遠は、夜更けの廊下を静かに歩いていた。
足音すら立てず、誰にも気づかれぬように。
向かう先は、礼部の中でも最も古く、今では使われていない倉庫の一角。
その奥に、彼だけが知る密室があった。
中に入ると、蝋燭に火を灯し、棚の奥から小さな箱を取り出す。
それは、月の国の滅亡前夜に交わされた密約の写し。
証拠はすべて消したはずだった。
だが、念のために一つだけ、手元に残していたのだ。
そして今、それが己の喉元に突きつけられようとしている。
「……私は間違ってなどいない」
誰に言うでもなく、懐遠は呟いた。
「彼らは滅びるべくして滅びた。私はただ、その流れを早めただけ。……この国の安寧のためだ」
そう繰り返す言葉は、祈りのようであり、呪いのようでもあった。
だが、その懺悔を誰が聞くでもない。
密室の蝋燭が、音もなく揺れた。
◆◇◆
翌朝。
都の広場では、子供たちが一つの歌を口ずさんでいた。
「つきのはな しろくちる
うらぎりとりは ないてとぶ
ともをうって くちをふさぎ
くびにまくのは ぎんのはな」
その旋律は、まるで子守唄のように柔らかだった。
だがその歌詞にこめられた意味を知る者の耳には、刃のように刺さる。
礼部尚書の侍従がその歌を耳にし、背筋を凍らせたのは言うまでもない。
「……これは……」
手にした布巾が地に落ちる。
その背後で、墨華宮の猫が、静かに微笑んでいた。
眠りを捨てた猫の狩りは、まだ始まったばかりだ。




