第二十一話:筆は剣より静かに
標的は定まった。
礼部尚書。
だが、彼はあまりに老獪であった。
私生活は清廉潔白。
欲深くなく、酒も女も好まぬ。
公務は常に完璧。
敵対する宰相でさえ、その仕事ぶりには一目置いている。
金 逸臣の証言だけでは、この巨大な岩を動かすことはできぬ。
物証が必要だった。
だが、男は十年以上もの間、その尻尾を一切掴ませていないのだ。
書庫室の空気は張り詰めていた。
もはやそこに昼寝の気配はない。
ここは今や、対・礼部尚書戦の最高司令部となっていた。
三者の役割は明確だった。
皇帝・暁 飛燕は、この作戦の最高責任者として、雪蘭が必要とするあらゆる情報と権限を与える。
彼の雪蘭への信頼は、もはや絶対的なものとなっていた。
王 麗華は、雪蘭の“剣”として、その指示を寸分違わず実行する実働部隊の指揮官。
雪蘭の身を守り、その知略を現実世界で具現化する。
そして李 雪蘭は、その“頭脳”。
冷徹な思考で敵を分析し、勝利への道筋を描く唯一無二の軍師。
彼女は、もはや眠りを必要としていなかった。
この忌まわしい過去を完全に葬り去るまで、安息はないと覚悟を決めていた。
「……どうする、雪蘭。礼部尚書は鉄壁だ。金の流れにも、女関係にも、不正の痕跡は一切ない」
麗華が焦燥に満ちた声で言う。
だが雪蘭は静かに首を横に振った。
「……城壁を外から攻めるのは愚策だ。ならば城主を、中から引きずり出せばいい」
彼女は帳簿や密偵の報告書を脇へ押しやると、一枚の白紙を広げた。
「我々は奴の罪を探すのではない。奴の“恐怖”を探すのだ」
「恐怖、だと?」
「そうだ。故郷を金と地位のために売り渡すような男。その魂の根底にあるのは、いつか全てが暴かれるという尽きぬ恐怖と猜疑心だ。その弱点を我々は突く」
雪蘭の瞳が怜悧な光を宿す。
彼女が語り始めたその策は、あまりに静かで、そしてあまりに残酷な心理作戦であった。
「第一段階。『亡霊』を放つ」
雪蘭は飛燕に向かって言った。
「陛下。金 逸臣を“逃す”のです。表向きは、約束通り故郷の寺院へと追放する。だが実際には、都の隠れ家に匿い、彼の手で手紙を書かせるのです。裏切り者だけが理解できる、月の国の暗号を使ってな」
その手紙には「私は生きている。助けが必要だ」と記させる。
そして、その手紙が“偶然”麗華の部下の手に渡るように仕向ける。
礼部尚書が直接手紙を受け取る必要はない。
ただ「逃げた金 逸臣からの密書が存在する」という噂を彼の耳に届けさえすればいい。
「第二段階。『歌』を流行らせる」
雪蘭は続ける。
「私が新しい童歌を作る。都の子供たちにこれを歌わせるのです。題名は『嘆きの銀梅花』。銀梅花は金の一族の家紋。そして歌詞には“落ちた月の下で、友を売った鳥”の物語を織り込む。ほとんどの人間には意味のない歌。だが、裏切り者の耳には、自らの罪を歌い上げる亡霊の声として聞こえるはずだ」
「そして第三段階。『視線』を集める」
雪蘭は最後に言った。
「陛下。かつて月の国に仕え、今は帝国で暮らす者たちを、ご自身の側に集めてください。彼らに意味もなく小さな役職を与え、公式の場で寵愛を示してみせるのです。礼部尚書は、その光景を見て必ず思うでしょう。『皇帝は何かを知ったのではないか。月の生き残りを集めて何を企んでいるのか』と」
亡霊からの手紙。
街角で聞こえる、不気味な歌。
そして皇帝の不可解な人事。
三つの矢は、礼部尚書のただ一点、その猜疑心という急所へと向けられる。
彼を決して物理的には攻撃しない。
ただ、彼の周りに疑心暗鬼という見えない牢獄を作り上げるのだ。
飛燕は、そのあまりに悪魔的な策に、恍惚とした表情を浮かべた。
「……良い。実に良い。お前の頭脳は、朕の想像を常に超えてくるな、月影」
◆◇◆
その日から、都では奇妙な出来事が起こり始めた。
ある日、捕らえられていた重罪人が護送中に逃亡したという噂が流れた。
また、ある日から、子供たちが街角で、奇妙な、そしてどこか物悲しい旋律の歌を口ずさむようになった。
そして宮廷では、皇帝がこれまで全く注目されていなかった月の国の出身の文官たちを、次々と要職に取り立て始めた。
雪蘭は書庫室で、ただ静かに、時が満ちるのを待っていた。
彼女は、人間の心が恐怖によっていかに容易く壊れていくかを知り尽くしていた。
礼部尚書が自らその鉄壁の仮面を剥がし、過ちを犯す、その瞬間を。
軍師『月影』は獲物を決して追いかけない。
ただ、完璧な罠を仕掛け、獲物が自らその首を差し出すのを待つだけなのだ。




