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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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第十五話:雨に濡れる記録帳

二ヶ月の月日が流れた。


それは帝国にとって、激動の二ヶ月であった。


南の地では、王 麗華が李 雪蘭の計画を、驚くべき速度と正確さで実行に移していた。


老兵たちは鍬を振るい、山を切り拓き、川に橋を架けた。


かつて国を守るために使われたその力と規律は、今、国を生かすための力へと変わっていた。


やがて、西の豊かな穀倉地帯から最初の穀物を満載した船団が、都の港へと到着する。


食糧危機は完全に回避された。


この前代未聞の事業の大成功は、若き皇帝の権威を絶対的なものとし、民衆はその聖君の如き手腕を熱狂的に讃えた。


その立役者が、後宮の片隅で昼寝をしている無気力な女官であることなど、誰も知る由もなかったが。


◆◇◆


麗華が都へと凱旋したのは、秋風が吹き始める頃だった。


日焼けし引き締まったその顔には、以前の生真面目さに加え、大規模な軍事作戦を成功させた指揮官としての自信と威厳が宿っていた。


彼女はもはや、ただの皇帝護衛官ではない。


宮廷の誰もが一目置く存在となっていた。


その彼女が真っ先に向かったのは、雪蘭の書庫室だった。


雪蘭は麗華が旅立った日と寸分違わぬ姿で、寝椅子に丸まり、穏やかな寝息を立てていた。


「……雪蘭。ただいま戻った」


麗華の声に、雪蘭は億劫そうに目を開けた。


「……ああ、麗華か。ご苦労。首尾はどうだった」


「全て、貴様の予測通りだ。穀物の流れは確保された。都は救われた」


麗華はそう報告すると、そこで一度言葉を切った。


そして声を潜め、衝撃的な事実を告げた。


「だが、奇妙な点を見つけた。貴様の言う通り、川の氾濫は人為的なものだった。

だが、その堰の作り方があまりに巧妙すぎたのだ。

西方の蛮族の技術ではない。

あれは、我が帝国軍の工兵部隊の技術が使われていた」


つまり、宰相あるいはその一派が、ただ蛮族を唆しただけではない。


帝国の軍事技術を蛮族に与え、積極的にこの破壊工作に加担していたという、動かぬ証拠。


「……そして、もう一つ」


麗華は懐から古びた木札を取り出した。


そこには見たこともない、独特の紋章が刻まれている。


「捕らえた蛮族の族長が持っていたものだ。

彼はこれを、自分たちに知恵と金を与えた謎の後援者の印だと言っていた。

その後援者のことを、族長はこう呼んでいた……『影の将軍』、と」


その言葉を聞いた瞬間。


そして、その木札の紋章を見た瞬間。


雪蘭の手が、かすかに震えた。


麗華には見慣れぬその紋章。


だが、雪蘭は知っていた。


忘れるはずがない。


それは彼女の故郷、滅びた月の国に仕えていた、ある小貴族の家紋。


戦で一族皆殺しになったと聞かされていた、あの家の紋章だった。


(……『影の将軍』だと?)


(……生き残りがいたというのか?

それとも……国を裏切った者がいたというのか?)


過去は、もはやただの記憶ではなかった。


それは生きた亡霊となって、今この帝国の暗闇で蠢き、かつての敵と手を組んでいる。


そのおぞましい事実に、雪蘭は眩暈さえ覚えていた。


◆◇◆


雪蘭と麗華は、飛燕の御前に全ての事実を報告した。


穀物問題の鮮やかな解決は、雪蘭の宮廷内での評価を決定的なものとした。


彼女が望まぬままに。


だが、飛燕の興味はもはやそこにはなかった。


彼の全ての関心は、『影の将軍』とその木札に注がれていた。


「……この紋章は」


飛燕は木札を手に取り、その鋭い瞳で吟味する。


「……『金』の家か。月の王家に代々仕えた忠臣の一族。

戦で途絶えたと報告を受けていたが……」


その場に同席していた宰相は、血相を変えて弁明した。


「そ、そのような亡霊など、わたくしは全く存じませぬ!

何かの間違いでございます!」


証拠は、まだ状況的なものだ。


だが、疑惑の種は確かに蒔かれた。


宮廷は、にわかに騒がしくなった。


滅びた王国の亡霊が、今、この帝国の権力闘争に介入しようとしている。


飛燕は玉座から立ち上がると、雪蘭に新たな勅命を下した。


その声は、もはや遊戯の色を消し、絶対君主としての冷徹な響きだけを帯びていた。


「雪蘭。その『影の将軍』の正体を暴け。

帝国の内側から国を売ろうとしている裏切り者を見つけ出すのだ」


それは雪蘭にとって、最も過酷な命令であった。


彼女は自らの手で、故郷の最後の、そして最も痛々しい秘密をこじ開けなければならなくなったのだ。


雪蘭は手のひらに握りしめた木札を見つめた。


それは、どんな兵法書よりも重く、彼女の肩にのしかかっていた。


平穏な昼寝のための戦い。


それは、いつしか自らが捨て去った過去を清算するための戦いへと、その姿を変えていた。


物語は、ついに核心へと、その歩みを進め始めたのである。

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