第十六話:衛 懐遠の影
宮廷は奇妙な緊張感に包まれていた。
『影の将軍』。
その正体不明の亡霊の存在が、すべての権力者たちの頭上に暗い影を落としていた。
宰相は自らへの疑惑を晴らそうと躍起になり、皇太后はその静かな宮殿で帝国の行く末を憂い、そして皇帝は高みの見物を決め込んでいた。
この息詰まる状況の中で、李 雪蘭は初めて自らの意志で動くことを決意した。
皇帝から与えられた勅命は、「『影の将軍』の正体を暴け」。
それは皮肉にも、今の雪蘭が最も望むことでもあった。
自分の故郷に何があったのか。
誰が生き残り、誰が裏切ったのか。
その真実を知るまでは、もはや安らかな昼寝など望めないと彼女は悟ったのだ。
かつて昼寝の聖域であった書庫室は、今や帝国で最も精度の高い情報分析機関と化していた。
飛燕の命令により帝国中から集められた地図、地方の戸籍記録、軍の配置図が壁一面に張り巡らされている。
雪蘭は麗華を唯一の腹心として、昼夜を問わず分析を続けた。
もはや彼女はただの相談役ではない。
この目に見えない戦争を指揮する司令官そのものであった。
「……このやり口」
雪蘭は地図に記された宰相派の不審な金の流れを見ながら呟いた。
「兵站を断ち、敵の内側から自壊させる。
これは私がかつて得意とした戦術。
この『影の将軍』は、私をよく知っている。
私の戦術を学んだ者。あるいは……」
「……あるいは?」
麗華が息を呑む。
「……私と共に戦った者だ」
その言葉に、麗華は戦慄した。
容疑者の範囲が帝国の数千万の民から、かつての月の国で雪蘭と共に戦った、ごく一握りの人間へと絞られた瞬間だった。
そのほとんどは戦で死んだと記録されている。
では一体、誰が。
◆◇◆
雪蘭と麗華は、飛燕から与えられた黒檀の令牌を手に、帝国古文書庫のさらに奥深く、通常は皇帝さえも滅多に足を踏み入れない禁断の領域へと入った。
そこには滅ぼされた国々の記録が、膨大な時間を埃と共に纏い、静かに眠っていた。
『月国』の書架を見つけた時、雪蘭の足が一瞬止まった。
それは彼女の故郷の墓標だった。
国勢調査、軍の名簿、宮廷の人事録。
その一つ一つが、彼女の胸を締め付ける。
麗華がそんな雪蘭の様子に気づかぬふりをしながら、目的の記録を探し出す。
『金』の一族。
あの木札に刻まれていた家紋の一族だ。
帝国の記録によれば、当主であった金将軍とその一族は、最後の王都決戦で全員玉砕したと記されている。
だが雪蘭は、その家族名簿の中に小さな矛盾を見つけ出した。
「……息子が二人いる」
名簿には確かに二人の息子の名があった。
長男は父と同じく武官として華々しく戦死したと記録されている。
だが、次男。
その名は──金 逸臣。
彼の欄にはこう記されていた。
「幼き頃より病弱のため、戦の数年前に都から遠く離れた道教の寺院にて医術を学ぶ」
そして、彼の死亡記録はどこにもなかった。
新たな容疑者の輪郭が浮かび上がる。
医術の知識を持つ男。
それは、あの遅効性の毒薬の知識と繋がる。
忠臣の家系。
それは父や兄から軍略を学んでいた可能性を示す。
そして最後の決戦の時、都にはいなかった。
生き延びていても、おかしくはない。
帝国に家族と故郷を奪われた、深い深い憎悪をその胸に宿しているであろう一人の男。
◆◇◆
「……金 逸臣」
麒麟堂で報告を受けた飛燕は、その名を面白そうに繰り返した。
「医術を学んだ学者先生が、復讐の鬼と化し、影の将軍を名乗るか。
実に芝居がかっていて、良いではないか」
飛燕は即座に密偵たちに命じた。
金 逸臣が送られたとされる、すべての寺院を徹底的に洗い出せと。
書庫室に戻った雪蘭は、巻物の上に記された『金 逸臣』というその三文字を、ただじっと見つめていた。
子供の頃、一度だけ会った記憶がある。
物静かで、書物ばかりを読んでいる線の細い少年だった。
あの少年が本当に『影の将軍』だというのか。
私の戦術を模倣し、この帝国を内側から蝕もうとしていると?
雪蘭は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
もはやこれは、宮廷の権力闘争ではない。
これは彼女自身の過去との、血塗られた清算なのだ。
亡霊には、亡霊を。
雪蘭は静かに決意した。
この亡霊を捕らえるためには、自分自身が再び、あの忌まわしい亡霊に戻るしかないのだと。
軍師、『月影』に。




