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第386話「第二層・夢の心臓」



 白い階段を降り切った瞬間、足の裏が“水”を踏んだ。

 薄い水膜が床一面に張っていて、踏むたびぼんと波紋が広がる。波紋は壁にも天井にも移り、やがて部屋全体が同じリズムで脈を打ちはじめた。


「……心臓だね」

 ミリアが低くつぶやく。声まで脈に吸われそうだ。


 円形の広間。中央には黒い柱――心臓柱が立っている。ゆっくりと、しかし確実にドクンと脈打ち、その鼓動が床の水膜を伝って四方に走る。広間の外へ伸びる“眠りの紋”にも、見えない電信みたいに波が飛んでいた。


 セインは呼吸を整え、短く未来視を開く――が、すぐに眉をひそめた。

(視えるのは一拍だけ。正確に言えば、一・五秒刻みで瞬間の切り取りしか掴めない。鼓動に合わせて視界が切れる……!)


 エリシアは肩で息をして、柄に指を添えた。

「呼吸と合わないと、剣が鈍る……この部屋、こっちの“拍”をずらしてくる」


 ミリアは額の汗を拭く。

「魔力が持っていかれる。打った分、鼓動に吸われる感じ」


 心臓柱の周囲には、腰ほどの高さの副塔が三基。

 赤い鈴、青い鏡面、金の糸車。それぞれに小さな警句が刻まれている。


手で触れるな。

音を鳴らすな。

回すな。


「単体で触ると罠、だな」

 セインは波紋と警句を何度も見比べ、脈のズレに気づく。三基は互い違いの拍で動いている。

「**同時に“逆”**をやれば外皮が開く。赤は“鳴らさず振動だけ”。青は“映し返さない”。金は“息穴を止めては解く”――鼓動の谷で。」


「了解」ミリアがうなずく。「鏡は任せて。映像を地面に逃がす膜を張る」

「鈴は私が柄頭で叩く。音は出さない」エリシアが短く答える。

「糸車は俺がやる。……一・五秒の制限下で、止・解の二指リズムだ」


 ――そのときだった。


 心臓柱の影がゆれる。白い面が、柱の中からすべるように出てきた。

 白面。音も気配も匂いもない。近づいたと思ったら、もう目の前にいる。

 セインの未来視が切り替わる合間を、正確に踏みこまれる。


「速い!」

 エリシアが一歩前に出て、空気を裂くように居合を放つ。

 カン、と硬い手応え。白面は刃を見てから最短で間合いを潰し、肩で受けて、すでに次の踏み込み。反応が全部“後手”になる。


 ミリアは短い詠唱を逆さに切り、足元の音を吸う反詠唱の短符をばらまいた。

 白面の踏み込みリズムが一瞬だけもつれる。

 セインはその一瞬に糸を撃ち込む――アスタロトの糸で床の水膜をひと呼吸だけ固め、白面の最短ステップをずらす。


 白面が初めて、半歩ぶれた。


「今!」

 三人は散り、各副塔へ走る。



 赤の鈴――

 エリシアは鈴の“舌”を見極め、柄頭でそっと**“芯”だけを打つ。

 鳴らさず、振動だけを通す。鼓動がわずかに噛み合った**。


 青の鏡面――

 ミリアは鏡の前に薄い影の布を張る。鏡は像を返さない。像は足下へ逃げ、床の水へ溶ける。


 金の糸車――

 セインは鼓動に合わせ、人さし指と中指で息穴を「止・解」。

 一・五秒のスナップショットが切り替わる谷に合わせ、二指リズムを三連で決める。


 ――同時に、白面が副塔へ切り込んでくる。

 セインは未来視で捉え、糸を床から弾く。固まった水膜が一拍だけ壁になり、白面の膝がかすかに止まる。

 エリシアの横一文字がその軌道を削り、面を結ぶ紐が半分切れた。

 ミリアの反射膜が白面の蹴りをほんの少しだけ返す。白面の踵が自分の脛に引っかかり、着地が狂う。


 三基同時“逆操作”。

 カチンと、心臓柱の外皮が開いた。


 露出したのは、黒い夢核。

 見た瞬間、視界に甘い霧が差し込んだ。



 ――ミリアの前に、ひだまりの部屋。

 テーブルの上で湯気が揺れ、小さな手が笑う。誰かが「母さん」と呼んだ。胸が熱くなる。


 ――エリシアの前に、トーマの横顔。

 夕焼け。二人で笑っている。手をつなぐ感覚まで本物だ。


 ――セインの前に、戦わない日。

 静かな村道。誰も傷つかず、誰も泣かない。胸が、すっと軽くなる。


 ――――指が止まりかけた、その刹那。


「三拍目」

 セインがかすれた声で言った。合図。

「落ち着け」

 ミリアが自分に言い聞かせる。

「抜くよ」

 エリシアが鞘から半分だけ刃を覗かせた。


 甘い霧が割れる。

 セインは剣先を最小限に下ろし、姿勢を一針にまとめる。

 未来視は一・五秒ごと。狙うのは鼓動の谷。そこだけ核の膜が柔らかくなる。

 ペンダントの残穢をほんのわずかに重ね、黒竜の鱗で反衝撃を殺し――


「――一針」


 パリン。夢核に細いヒビが走る。

 白面が最後の突進。面は揺れ、殺意は無音のまま届く。


 エリシアが半身で横一文字。白面の進路を断ち、肩口から胸へ線を置く。

 ミリアの反呪奔流が核の“自己修復”を止め、ヒビは広がる。

 セインの二針目が、鼓動の変わり目に差し――


 黒い核は弾け飛んだ。



 心臓柱の鼓動が消え、広間の水膜が静まる。

 外へ伸びていた眠りの紋が次々と白く切れ、遠い方角で泡回廊が開いた。

 眠らされていた人たちが、泡の道をすべって戻っていく。


「……終わった、の?」

 ミリアが膝に手をついた。魔力の同期疲労で脚が笑う。


 エリシアは胸に手を当て、肋の古傷がちくりと疼くのをやり過ごす。

「大丈夫。まだ行ける」


 セインは額の汗を拭い、深呼吸をひとつ。未来視の残像酔いが残っていたが、息を整えれば抜ける程度だ。


 そのとき、上から黒い紙灯籠がゆらりと落ちてきた。

 灯籠に墨で文字がにじむ。


――第三層にて待つ――


 嫌な静けさが、もう一度、広間を満たした。



【艦上・回収線】


「急げ、泡が痩せておる。次の鼓動が来る前に退路を張り直すのじゃ」

 セリスティアが指先で空をなぞると、細い光の糸が幾本も生まれ、泡の出口に橋をかけた。

「お主ら、列を崩すでないぞい。泣く子は我が抱く、はよ来いはよ来い」


 彼女の周りで、救い出された人々が小走りに渡っていく。

 セリスティアはときおり短く目を閉じ、広間の三人の鼓動を探る。

「……うむ、生きておる。ようやったのう」


【港・地上】


「こっちだ、焦るな。深呼吸して歩け」

 エルンが低い声で人を捌き、桃姫が横で手拭いを配っていく。

「立てない人はこちらへ。水、持ってきて!」


 黒犬は門の上に立ち、静かに霧を見ていた。

「まだ終わっとらん。刀は抜かぬ、ただしいつでも抜ける」


 ノブナガは無言。霧の奥を見据えたまま、一度だけ顎を引いた。

「ここで退かぬのが、武だ」



 広間の中央に残った三人は、奥へ続く細い階段を見上げた。

 壁に古い詩が刻んである。


眠りは甘く、怠惰は蜜、目覚めは刃。


 セインは剣を握り直した。

「行く」

 ミリアは息を整え、立ち上がる。

「うん。……まだやれる」

 エリシアは鞘に指を添えて、目を細めた。

「次で決める」


 階段の上。霧の奥で、一拍だけ笑いの影がゆれた。


――第三層へ。

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