第387話「第三層・怠惰の微笑」
霧は薄い。足元は白い砂。頭上では、ゆっくり回る扇灯がカラカラ鳴り、風のない空気をかき混ぜていた。
セイン、ミリア、エリシアの三人は、音の少ない回廊を進む。壁は淡く光り、先が見えるようで見えない。
「……拍がズレる」
セインが眉を寄せ、胸元のペンダントを指で軽く叩く。未来の“窓”が狭む感覚。いつもなら一拍先がはっきり見えるのに、今日はせいぜい半拍ぶん。息が合わない。
「空気そのものが“夢”じゃ。気を抜けば、すぐに飲まれるのう」
ミリアが顎で示す。広間の中央、円座に座った人々が、全員、笑顔のまま眠っている。子ども、老人、若い夫婦。みな同じ方向を向き、同じ微笑で固まっていた。
エリシアは無意識に剣の柄を握りしめる。
「……気持ち悪い笑顔。作りものの笑顔だ」
広間の奥で、木魚の乾いた音が一つ。白木の数珠を持つ痩せた僧が、影から現れた。首には笑う面をぶら下げている。目は笑って、声も柔らかい。
「よう来た。喜べ。怒れ。恐れろ。お前たちの感情は、我の糧だ」
僧は合掌した。
「わしは《睡魔僧ユウガ》。怠惰の司教ゼノウの“分祀”にすぎぬが、役目は果たそう。楽に、静かに、眠る道を示す」
セインの未来視がふっと曇る。怒りが喉に上がり、踏み込みが荒くなる。体が重い。関節が硬くなる。
「……ッ!」
「怒るほど重うなる。ええ調子じゃ」
ユウガが笑面を撫でた。床に見えない輪が広がり、重力が一段上がったような圧が来る。
エリシアの目に“影”がよぎる。トーマが振り向く、幻の背中。息を呑み、喜びと不安がいっぺんに胸を揺らす。刃の出が、かすかにズレた。
「くっ……!」
ミリアは円座の笑顔に、知らず口元が緩む。安堵。次の瞬間、足元に黒い印。
「《恍惚印》——微笑み、いただいた」
ユウガの数珠が鳴り、ミリアの魔力が吸われるように抜けていく。
「楽だろう? 痛みのない、温い眠りじゃ」
「——“静”に落とす」
セインが短く言った。喉の熱を押さえ込み、胸の拍を“平ら”にする。怒りも焦りも、いったんゼロ。
剣先がわずかに下がり、足裏の重心が静かに決まる。未来の窓が、ふっと広がった。さっきまで半拍ぶんだった視界が、もう一拍先まで届く。
「合図、了解」
ミリアが低く歌い出す。響きは細く、長く、まるで遠い森の小川の音。言葉はない。けれど胸のざわつきが削れていく。“喜”“怒”“恐”の波が、緩やかになる。
「《静謡》……落ち着け、落ち着け、戻れ」
エリシアは鞘に親指をかけ、息を長く吐いた。
「——居合《空》。感情は刃に載せない。今だけは、空っぽで行く」
腰が決まり、右足の小指が床を掴む。鞘口が軽く鳴る。
ユウガの笑面が、初めてわずかに傾いた。
「おや。煽っても揺れぬ。ならば……“上”を使うか」
数珠が一段大きく鳴った。広間の天井が薄く透け、遙か上に“梯子”のような影が走る。
「《大夢梯子》。地上の眠りを、ここへ繋ぐ。今、外の避難路は揺れておるぞ?」
◆ ◆ ◆
——地上・泡回廊。
「お主ら、列を崩すな! 慌てるでない!」
セリスティアが杖を叩く。半透明の橋が一本増え、逃げ道が二本から三本へ。泡の壁がぶるぶる震えるたび、修復の光が走る。
「通せ! ここは我らが押さえる!」
ノブナガの武士団が、泡の橋脚に殺到する夢影をまとめて弾く。袈裟掛けの一刀、二刀。揺れる導線は、ぎりぎりだが保たれていた。
「ちょいと失礼」
黒犬——カツイエが、橋の根もとに走る黒い筋を一閃。乾いた音で“節”が切れ、揺れが半分に落ちる。
「今のうちに行けぇ!」
桃姫は護衛を引き連れ、子どもと老人の隊を抱えるように移動させる。
「焦らぬ! 焦らぬ! 息を合わせろ!」
背でエルンが短く指示を飛ばし、落伍者を引き上げる。
◆ ◆ ◆
広間。ユウガは穏やかに合掌したまま、三人を“柔らかく”締め上げる。
「選べ。喜べば吸う。怒れば重くする。恐れれば視界を裂く。楽では、ないか?」
「選ばないよ」
セインが一歩進む。剣が音もなく走り、ユウガの足運びの拍に、細かく“刻み”を入れる。
「《等拍連穿・刻み針》……こっちの拍で、そっちの拍を乱す」
ユウガの指先がわずかに遅れる。恍惚印から憤輪への切り替えが、半拍ぶんずれた。
「今!」
ミリアが歌を一段深く落とし、両手を胸の前で組む。
「《静流封》——三つの回路、静かにして!」
笑面の内側で回っていた“感情の輪”が、押さえつけられる。回転は止まらない。けれど、はっきり遅くなる。
「核はどこ」
エリシアの視線が数珠の結び目に吸い寄せられる。指が鞘口を滑り、糸のように細い呼吸ののち、
「——空閃」
キィン、と高い音。
ユウガの数珠がぱちぱちと弾け、笑面が床を転がった。
「おや」
柔らかな声が、初めて素の響きを漏らす。
「ここで寝かせる気はない」
セインが詰める。ユウガの足が滑る。重力の輪はまだ残っているが、切り替えが追いつかない。
ユウガはふっと目を細め、天井を見上げた。
「外は、持つ。ならば——ここは、終いじゃ」
数珠の残りが自らほどけ、ユウガの胸に戻る。僧は静かに膝をついた。
「主に会う器は、ある。……行け」
次の瞬間、黒い紙片がひらひらと落ちてきた。表は真っ黒、裏に墨の滲み。紙は勝手に開き、滲んだ線が地図になる。街路が曲がり、門が歪み、文字が浮かぶ。
——《薄闇の巡礼街》。
ミリアが紙にそっと指を当てた。
「座標……“礼拝路”。これをたどれば、ゼノウに届く」
「狩りの道だな」
セインが息を整える。胸の拍はすでに静か。未来の窓は、元の広さに戻っていた。
「やっと見えた。斬るべき“核”が」
エリシアが笑う。いつもの鋭い笑み。感情は刃から降ろしている。けれど目は強い。
ユウガの体が、塩のように崩れていく。消える間際、僧は声を落とした。
「眠りは、甘い。だが、お前たちの“静”は、もっと甘い。……主よ、これは面白い。」
僧が消え、広間の笑顔がばらばらにほどける。円座の幻が砕け、白砂に吸い込まれていった。扇灯の音も止む。
黒い紙は、ふわりと燃え始める。灰が細い筋になって舞い、広間の出口——北西へ流れていった。
「方角、出たのう。北西じゃ」
ミリアが息を吐き、うなずく。
「……セイン。さっきはありがと。静かにって言われなきゃ、笑うところだった」
「俺も。怒りに引っ張られかけた」
セインは笑う。照れくさい笑い方だ。
「でも“静”はやれる。何度でも」
「——行こう」
エリシアが先に歩き出す。歩幅は変わらない。足音は軽い。
「この先が本番。ゼノウの首、必ず取る」
◆ ◆ ◆
地上・泡回廊。
「止んだのう」
セリスティアが杖を下ろす。泡の揺れが静まり、橋はぴんと張り直された。
「通行再開。淀むな、行け!」
ノブナガが手を振る。武士団の視線が一斉に緩む。誰も声は出さないが、ほっとした表情が走った。
「やれやれ……年寄りには効く揺れじゃった」
黒犬が肩を回し、にやっと笑う。
「だがまあ、若いのが決めたのだ。気分がよい」
桃姫は胸に手を当て、遠くを一度だけ見る。
「……信じています。必ず、戻ってくる」
エルンが頷いた。
「戻ったら、仕事は山ほどだ。避難路の常設、物資、巡回。やれること、全部やる」
◆ ◆ ◆
第三層の出口で、三人は一度だけ振り返る。
白砂の広間は、もう“無”に近かった。足跡だけが淡く残り、扇灯の影が細く伸びている。灰の筋は途切れず、北西へ。
「ここからは——“狩り”だ」
セインは拳を軽く握り、前を向く。
「逃がさない」
ミリアの声は低い。静かなまま、芯が熱い。
「斬る。浮かんでは消える“眠り”の核を、全部だ」
エリシアが頷いた。
灰の筋が、風もないのにするすると進む。三人はそれを追う。
次の狩り場——《薄闇の巡礼街》へ。
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