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第384話「白霧の輪、同拍三手」



 白が、世界を飲みこんだ。

 陸と海の境も、空の高さも、何もかもが消えている。ただ白。耳の奥で、遠い子守歌のようなハミングが揺れて、まぶたを重くする。


「——二回押し前進。一回引き停止」

 セインは短く確認し、左右の指を握った。右手はエリシア、左はミリア。三人の指の力が、迷いのない“拍”になる。


 白霧がゆっくり脈打つ。

 次の瞬間、海の底から“何か”が突き上がった。巨大な影が、白の向こうで身を返す。音は遅れて来る——水と骨が軋む重い音だ。


「来る、半拍遅れで右——!」


 セインの未来視が跳ねた。数秒先の“手触り”が掌に走る。足場が半分だけ軽くなり、空気が一枚、剥がれる。


「もらう!」

 エリシアが鞘で床を“コツン”と叩く。居合を抜く角度を紙一枚だけ返す。

 ミリアは息を細くまとめ、「薄祈うすいのり」と囁く。眠りの線をそっとずらして、子守歌の拍を外す。


 海の巨影——**眠鯨ねむくじら**の突進が、三人の前でわずかに逸れ、白の中を斜めに滑っていった。渦が生まれて、霧の厚みがほんの一瞬だけ薄くなる。


「今のが“あいさつ”かよ……」

 セインは喉を鳴らし、汗を拭った。指は離さない。二回押し、前へ。三人の靴底が同じ拍で白い石を踏む。


 歌声が近づく。

 子守歌の歌い手が、こちらを覗いている。


     ◇


 霧が、安心を差し出してきた。


 セインの前に、潮風の匂い。

 血も争いもない小さな港町——朝、焼きたてのパン、昼下がりの笑い声、夜は鍵をかけなくてもいい静けさ。肩から力が抜ける。目の奥がじん、と温かい。


 エリシアの足元には、木の食卓。

 父と、トーマが笑っている。「ほら、座れ」と手が招く。湯気の立つスープ。懐かしい土の匂い。


 ミリアには、世界樹の根元。

 みんなが無事に眠る夜。風が葉を揺らし、星が下りてくる。心がほどけて、歌が出かかる。


 ——指の圧が、弱くなった。

 セインの数秒先が、霧に吸われはじめる。


 コツン。

 エリシアが自分の頬を鞘で軽く打った。ぱちん、と涙の膜が切れる音。彼女はふたりの指をもう一度握り、強く、今度は三拍で押した。


「起きろ、起こす側に戻る」

 声は短いのに、熱い。


「わかった。——歌、返す」

 ミリアは喉の奥に小さな火をつけ、逆拍のハミングを響かせる。子守歌の線がもつれて、霧の呼吸が乱れた。セインの未来視が、再接続する。


「助かった。——前進、二押し」


 三人は歩を合わせる。白霧のむこう、海鳴りが再びうなる。


     ◇


 眠鯨の本突進は、先の何倍も重かった。

 白い社殿の輪郭が揺れ、地面の石目が半拍ずつずれていく。まるで輪そのものが、巨大な口で呑みこもうとしている。


「社殿の下、“主結び”に糸通す。安全窓は——一瞬」

 セインは短く言い切り、仮糸をとばす。未来視の指先が、見えない結び目を掴んだ。ここだ。今だ。


「居合《波返し》」

 エリシアの鞘が鳴る。刃は抜かない。水路の角度だけを紙一枚返して、突進の“坂”を変える。


「反祈——薄・薄、二重」

 ミリアが祈りの膜を二枚、重ねる。最初の膜で眠りの線を受け、次の膜で反転させ、すべる通り道に換える。


 三つの手が、同じ拍で社殿の芯に刺さった。

 眠鯨の額が大地すれすれで止まり、尾が大きく揺れる。霧が咳をして、白が薄くなる。


 その“薄さ”の向こうに、誰かが立っていた。


     ◇


 白衣の女がいた。

 目には縄の目隠し、髪は潮で重い。腕に巻かれた紐は、どこかの村の結い紐に似ている。彼女は像のように動かず、しかし声だけは、やさしい子守歌のまま。


「皆で眠れば、争いは終わるわ」


 霧が、彼女の周りだけ静かに降っていく。


「眠りは終わりだ」

 セインは一歩出て、迷わず返す。「俺たちは“続ける”ために起きる」


「痛くても前へ。紙一枚だけでも開ける」

 エリシアは鞘を握り、顎を上げる。


「歌はね、起こす歌にもできるよ」

 ミリアは微笑まずに言い、喉の火を強めた。


 白衣の女は細く笑い、霧剣を抜いた。眠鯨の影と拍を合わせ、二重の斬撃が押しよせる。


「糸——仮止めから本縫い」

 セインが結び目を固くする。眠り線が一拍だけ途切れ、霧剣の腹に隙ができる。


「居合《霧割きりわり》」

 エリシアの鞘打ちが剣の腹だけをはね、刃筋を半歩ずらす。


「薄祈“目隠し返し”」

 ミリアの祈りが女の目隠しの呪を一拍だけ外す。白衣の女は目を見開いた——そこに世界の色が、ひとかけら戻る。


 霧剣が欠け、眠鯨の尾が落ちる。

 女の輪郭にひびが入り、声が砂になる。


「……鎖……北西……ま……」


 彼女は光の粉になって、白の中へ散った。

 眠鯨は深海へ身を沈め、海鳴りだけが遠ざかる。


     ◇


 社殿の床が、静けさを取り戻した。

 逆紋の黒い線が、ひとつ、またひとつと消えていく。最後のひと筋がほどけたとき、祭壇の底板がコトンと開いた。


「……これ、海図?」

 ミリアが拾い上げる。黒い墨で描かれた影墨の海図プレート。島々を一筆書きで結ぶ線。その先に、太い線が北西へと伸び、余白に小さな鎖印が刻まれている。脇に細い字。


 ——潮路のしおじのもん/“幻港トバリ”経由。

 ——**鎖鐘さじょう**が鳴れば、眠りの王廊が開く。


 セインは指を離さぬまま、二人と顔を見合わせた。

「“門”だ。北西へ行く」


「うん。起こす歌、もっと響かせる」

 ミリアの肩で光がまだ熱い。


「紙一枚、まだ余裕ある」

 エリシアは鞘を軽く揺らし、口角を上げる。


     ◇


 白が晴れると、沖に黒船が並んでいた。

 甲板から手旗が上がる。短い線で描く潮の道。黒犬が旗竿を肩にのせ、面倒くさそうに、でも正確に合図を送ってくる。

 ノブナガは補給の箱を小舟に積ませ、港へ流した。箱の上には魔除けの帆布と乾いた木綿、傷に効く塩の包み。


 島の人々が、眠りから覚めて浜に集まる。

 老人が塩をつまみ、子らが小さな米袋を差し出す。手を合わせ、深く頭を下げた。


「後遺症、残さないように」

 ミリアは薄祈で眠気の残りを撫で、咳をする子に温い膜をかける。

 エリシアは祭具の欠けを繕い、歌石に安全封をかける。

 セインは崩れた鈴の紐を結び直し、社殿を原状に戻した。


 潮が変わる。

 海図の端にあった細字が、もう一度、目の端に引っかかった。


 ——潮路の門で鎖鐘が鳴れば、眠りの王廊が開く。


 そのときだ。

 セインの未来視が一瞬だけ跳ねた。北西の空を、黒い輪が横切る。胸の奥で、心臓が一拍、強く打つ。


「——行くか」


「行こ」

「うん」


 三人は同時にうなずいた。

 黒船の舵が北西へ切られ、白霧の名残を割って進む。空には鳥の群れが昇り、島の鈴が、かすかにカランと鳴った。


 次回——第385話「潮路の門、幻港トバリへ」。

 鎖の鐘は、どんな音で鳴るのか。三人の拍は、もう合っている。

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