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第383話「島廻りの一筆書き」



 海は、朝の色だった。

 薄金の光が波の背でほどけ、岬の見張り台からは、白い鳥が二羽、風に乗って滑っていく。


 小早が岸を離れる。櫂が水を押すたび、船は軽く跳ね、潮の匂いが胸いっぱいに満ちた。


「確認しよう」セインが短く言う。「壊さず、止めて、残す。これでいく」


「了解。わたしは“紙一枚”で軌道をずらす。壊すのは最後の最後だけ」

 エリシアは鞘に親指を添え、瞳だけで水平線を切った。


「薄祈で毒を抜いて、反呪で逆さを元に戻す。……優しく、確実に、ね」

 ミリアは掌を合わせ、胸の前で一拍、呼吸を整える。


 船尾では、黒船から掲げられた旗が三度、風に打たれた。合図は「補給線は生きている」。甲板の上でノブナガが片手を上げ、黒犬がいつものゆるい笑みで「戻るは開けとく」と大きく口の形を作る。縄、干し肉、水、合図花火――木箱がこちらの船へ滑り込む。舞刃が墨で描いた影の地図には、点と点をつなぐ黒い線が、沖へ沖へと伸びていた。


「一筆書きでいこう。まず“白泡の島”。それから“黒潮礁”。最後に“白霧の輪”だ」

 セインは帆の陰で未来視をかすかに開く。数秒先、波の山と谷の位置が指に触れるみたいに分かる。櫂のタイミングを半拍先へ送り、船はほとんど踊るように走った。



 白泡の島は名のとおり白かった。

 浜は粉砂糖みたいにさらさらで、踏めば音も立たない。海蝕洞の口は黒く、潮が吸い込まれては吐き出すたび、洞の天井からひんやりした息が流れてくる。


「香りが強い……甘い。眠りを誘う系」ミリアが鼻先を指で押さえる。

「歌石の音も混じってる。低い拍ね」エリシアが耳を澄ます。


 洞奥には小さな祭壇。香壺、太鼓、歌石――ぐるりと回転し、淡い光を吐きながら、細い眠りの糸を吐いている。


「行く」

 セインが一歩、二歩と踏み込んだ瞬間、天井から“笑顔の面”が雨のように降ってきた。触れたら落ちる。落ちればそのまま眠る。そんな嫌な未来映像が、二秒先に重なる。


「ここ!」

 セインは未来の“落ちる場所”に、先回りで“時間の足場”を置いた。透明な板が空気に浮かんだみたいに、面はそこに“先に”当たり、軌道がずれる。


 エリシアは鞘で面の向きだけをことり、ことりと変える。「割らない、ずらすだけ」

 ミリアは薄い祈りの膜を歌石にかぶせ、回転をやさしく鈍らせた。拍が一つ、二つ、外れていく。


「……止まれ」

 最後の太鼓の響きをセインが仮縫いで“固定”。祭壇は動きを失い、眠りの糸がほどけた。


 面の束の中から、若い僧形がゆらりと浮き上がる。瞳は虚ろ。

「……わたしは……睡蓮すいれん……夢の……番を……」


「代行者の呪だ」ミリアが囁き、薄い反呪を一筋、男の額へ撫でる。

 セインが結び目を仮に留め、エリシアが肩を支えると、彼の目に色が戻った。


「……次は、黒潮のしょう……潮の背に、太鼓が……」


「助かった。寝なおしてて」

 ミリアが微笑むと、睡蓮は安心したこどものように頷き、すとんと座り込んだ。



 黒潮礁は、潮が歌っている場所だった。

 岩の背に据えられた反射太鼓が、波のリズムを増幅し、眠りの波を作って放っている。


「先に響路を切る」

 エリシアが一歩。踏み込みは短く、刃の抜きは最小。

 ――居合・波断。

 一拍だけ、潮の路が切れ、太鼓の音が空へ外れる。


「今!」

 ミリアの薄祈が音だけをすくい取り、太鼓は無傷のまま止まった。

 セインは礁の影に手を差し入れ、二秒先に動く“栓”を先取りで押さえ込む。


「壊してない。止まった」

「よし、次だ」

 礁の背に刻まれた影墨の線は、さらに沖へ。白い霧の輪が、遠目にも見えるほど濃く渦を巻いていた。



 白霧の縁は、呼吸を溶かす場所だった。

 甘い香り。遠くの子守歌。白い糸みたいな霧が足首に絡みつき、歩幅をごく自然に狭めてくる。


「ここ、危ない」セインが足を止める。未来視の片隅に、半拍先で“眠る自分”が映った。

「香り、風に捨てる」ミリアが袖で風路を作り、香りを外套へ吸わせる。

 エリシアは鞘の棟で自分の頬をちょんと打ち、「刃醒じんせい」。瞳の焦点がぴたりと合う。

 セインは息を切る。吸う、止める、吐く。眠気が来る“半拍前”に呼吸を切り替え、波のように体内のリズムをずらした。


 霧の輪の内側、半ば海に沈んだ社殿がある。巫女の像の額には、逆向きの紋。怠惰の“根”だ。

 その時、海の下で、何か巨大な影が横切った。

 どすん、と海が腹の底で鳴る。


「……鯨」エリシアの手が無意識に柄へ落ちる。

「眠りを運ぶ親玉。突進の軌道、ずらし続ける」セインが短く段取りを切る。「像の紋はミリア。オレは社殿下の主結びを仮に留める。三人で同時に」


「了解」ミリアは巫女像の前に立ち、祈りの指をほどく。「薄く反転、深くはまだ」


 その時だった。霧の奥から、やわらかな声がひとつ、笑う。

「眠りは慈悲。おやすみ、英雄たち」

 姿は見えない。声だけが、水の膜をなでるみたいに流れてくる。


「出てこないのか。なら――やるだけだ」

 セインがうなずいた瞬間、霧が一気に濃くなり、視界が切り分けられた。

 三人は手を伸ばし、互いの指先を探り当てる。温度はそこにある。離せば、終わる。


「合図は、二回。押したら前、一回引いたら止まれ」

「了解」「分かった」


 二秒先――鯨影が突く。

 エリシアの鞘打ちが、一閃。水の道が“紙一枚”ずれる。

 ミリアの反呪は祈りを半拍早め、逆紋を薄く剥がす。

 セインは社殿下の“主結び”に手を伸ばし、仮の糸を通す――


 海が、牙をむいた。


 どん、と腹の底から響き、白霧の幕が、完全に閉じた。


(つづく)

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