魔獣と契約④
「記憶がないの? どうして?」
魔獣が悲しそうな顔をして里奈を見つめた。
予想外の返答だったようで、困惑しているようだ。
「私が三歳のとき、お父さんとお母さんと一緒に事故に遭ったの。お父さんとお母さんはそれで亡くなったし、私は事故の影響でそれまでの記憶を失くした。里奈って刺繍がされたハンカチをもっていたから、かろうじて名前は分かったけど、それ以外は何にも分からなかった。だから、おじいちゃんが迎えにくる五歳までは、病院と施設で育ったのよ」
思い出したくても思い出せない記憶たち。
それには両親のことも含まれる。
里奈は目線を地面に落とし、俯いた。
そんな里奈の足元に魔獣は寄り添い、尻尾を里奈の足に絡ませ、
「そうだったんだね。だから記憶が大切だって言うんだね」
と静かな声で言った。
里奈の過去の詳細は知らなかったようで、困惑している。
何もかもの記憶が無くなってしまった里奈には、両親との思い出の品がない。
当時生きていた祖母が、悲しくなるからと、両親のものは全て処分してしまったらしい。
もともと父と祖父は仲が非常に悪く、父は家出のような形で家を飛び出し、母と結婚した。
だから里奈が生まれたことも、母親がどういう人だったかも祖父母は知らなかったようだ。
祖母はそんな祖父をみていたので、里奈の父親の物はすべて処分せざるおえなかったから、写真も全く残っていなかった。
「そう。だから一番大切な記憶はあげられない」
「別に記憶じゃなくてもいいんだよ? 記憶の他に大切なものはない? 要はミストルティンが、リナの差し出す対価が気に入ればいいんだし!」
なんとしても契約させたいことが見え見えだ。
全く食い下がらない魔獣は、あの手この手で、里奈を落とそうと必死だった。
何もないどこまでも白い空間をぼんやり眺めながら、里奈は考える。
「今、自分にとって大切なもの……大切なもの……」
「え~? なんかないの? 地位とか名誉とか、お金とか~」
「どれも持ってないし。一番大切なものは家族だけど、おじいちゃん死んじゃったし、あの家も売り払われたし……」
自分で言っていてなんだか悲しくなる。
今の自分に大切だと思えるものが、記憶意外にないなんて……
リア充の女子高生だったら、即答で色々出てくるだろうに。
そして、この魔獣も自分に見つけられて、なんだか可哀そうだ。
「今までの人はどうだったの?」
苦肉の策で、里奈は、以前の契約者の対価を参考にする案を思いついた。
「契約できたのは、もうかれこれ何十年も前だから、忘れたよ。契約に失敗した人たちも沢山いたしね」
魔獣からの返答は全く役には立たない。
「……。失敗するとどうなるの?」
「自分にとって大切なものだけ奪われちゃうね。あ、心配しないで。リナはとりあえず、ボクが推薦してる者だから、そうはならないよ~」
(信じて大丈夫だろうか……。もしかしたらのみ込む気で、すでにいるのかも……)
疑心暗鬼になりながら、再度自分にとって大切なものを思い浮かべてみる。
「やっぱり健康とか……。でもそれをあげちゃ、本末転倒だし……。お金も家ももっていないし、家族もいないし、プライドもないし。困ったなぁ……」
「ねぇ、アムステールに来て一番願ったことって何?」
「え? アムステールに来て一番願ったこと? そりゃ、もちろん、元の世界に帰ることでしょ~」
里奈は当たり前だという口ぶりで、魔獣に言い放つ。
今はあまり口にしていないが、初期段階は毎度毎度心で唱えていたことだ。
「それだ!! リナ、きみの一番の願いはそれじゃないかい?」
「え?! 元の世界に戻ることが? 確かにそうかもしれないけど」
「それを『対価』に差し出そう! それはミストルティンと対等に契約できる」
頬を蒸気させ、尻尾をしきりにフリフリしている魔獣は、里奈の周りをくるくる回る。
そんなテンションについていけない里奈は、眉をひそめ魔獣に質問をぶつけた。
「ちょっとまってよ。確かにそれが一番の願いかもしれないけど、それを差し出したらどうなるの? 元の世界のことを忘れてしまうの?」
「それは大丈夫! でも、リナ自身の力で、あちらの世界に渡れなくなる。だから、きみはこちらの世界で暮らさないといけない」
「…………ちょっと考えさせてくれるかな?」
まさかの展開に、脳の活動がついていかない。
確かに、アムステールのみんなは私の家族だと言った。
アムステールを再建するまで絶対に帰らないと誓った。
でも、一生このままアムステールに住み続ける覚悟があるかというと、すぐにイエスと言えない。
アムステールのことも、この世界の仕組みも、知らないことが沢山あるのに、こんな重要な決断を今しろと?!
里奈の脳は、若干パニックになっていた。
「まぁ、そうだよね。きみはずっと元の世界に帰るために頑張っていたわけだし、それを対価になんて難しいよね。でもさ、きみは言ってたよね? 元の世界でもどうせ再スタートだって。アムステールが自分の居場所だって」
「…………まぁそうだけど」
「この空間から出るには、もはやミストルティンの力が必要なわけだし。もう覚悟を決めるしかないんじゃないかな~?」
「うっ……」
「まぁ、どーしても 帰りたくなったら、腕が引きちぎられるかもしれないけど、ミストルティンとの契約を解除すればいいんだよ~」
さらりと腕一本とかいう、恐ろしいを平気で言う魔獣は、里奈を勢いで畳みかけていく。
そして、里奈にとどめをさした。
「さあ、早くしないとあの王子の演説に間に合わないよ? 助けるって決めたんでしょ?」
「う……それは……」
「さあ、リナ! 今こそ決断の時だ―――――!」
「なんて残酷な選択なのよ――――!」
里奈は悲鳴に近い叫び声を上げたのだった。




