火災
(よし……眠ったようだな……さっさと火をつけてここから逃げないと……)
黒ずくめの男が、小さい箱からマッチを一本取り出し、床に撒いておいた石油に近づけながら点火させる。
すると、瞬く間に炎の道ができ、一気に周りの草木にバチバチと音を立てて、燃え移っていく。
それは火の馬が走っているかのよう――
男は、すぐさま扉を開け、脱出しようとしたが、温室から完全にでる間際に、すやすやと眠る王子の姿が目に入ってしまった。
(これで……いいんだよな……)
扉の前で男は立ち止まり、自分の心に尋ねる。
男が立ち止まっている間も、どんどん炎は王子の元へ迫っていく。
その時だった。
奥から、ゲホゲホとむせる音。
男は息ができなくなった。
でも、それは炎のせいでも、煙のせいでもなかった。
男の顔に汗がぶわっと吹き出す。
心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。
ドアノブに掛けられた手が動かず、汗がにじむ。
(今ならまだ――)
男は一瞬、王子のもとへ走ろうかと思った。
でも、それは一瞬のこと。
頭の中で、仲間たちの声が響き、それはすぐさまかき消された。
そして、唇を噛みしめ、
「ちくしょう!! ちくしょう! 何で俺なんだよ!! なんで俺がこんな役目を……」
右手でドアノブをぎゅっと握りしめたまま、左手で扉を叩く。
ドン……ドン……ドン……
男が叩く音が温室に響くが、炎で巻かれた木が倒れる音で、かき消されていく。
「た、たすけて……く……れ」
か細い声が、後ろから微かに聞こえたが、もう遅い。
彼は、自分の心に蓋をし、頭を下げて勢いよく駆け出していく。
「俺は間違っちゃいない! こうしないと俺らの生活はよくならないんだ!!」
叫びながら、自分の最大限の力で走る。
侍従や侍女たちが、水を早く! と叫びながら行き交う中をすり抜け、皆が向かう方向とは逆に走っていく。
侍従たちがどんなに頑張っても、あの火災はもう消し止められない――
もう王子は目を開けることはない――
男は拳を握りながら走っていく。




