木漏れ日
すぐ横を歩く狼の尻尾が、躓きそうになったティハを諭すように叩く。
彼は暖かそうな毛皮に覆われているので何ともないのだろうが、洞窟は想像以上に冷え切っていて寒さの苦手なティハを苦しめる。足場は悪く、時折傾斜のきつい坂道を降りる必要もあった。
暗闇は長く続き、脚に寄り添う狼の温かさだけが頼りだ。最初は小さかった湧水の流れる音もいつしか大きくなり、ついに川と呼べる程の大きさになっているのが分かる。この寒さの中滑り落ちたら自分もユエも助からないだろうと思った。
手先足先が凍えて感覚がなくなってきた頃、ようやく光が見えた。知らぬ間に外の世界は朝になっていたらしい。
「滝だ!」
ユエと共に背負われていたテンが叫ぶ。
洞窟を抜けた川は轟々と音を立て、外界に流れ出ていた。淵に立ち下をのぞくと、ティハにとって懐かしい景色が眼下に広がっていた。
「ラガルティハの森……」
冬でも緑の絶えない楽園、ラガルティハ。
生まれて初めて離れた故郷。それが視界に入るだけで、自分でも驚くほど安堵していることに気づく。知り尽くした気配を纏った森から次々に『力』が注ぎ込まれ、ティハはほう、と知らず溜息を吐いた。
視界の端で、突き出た岩に飛び移りながら危うげなく下に降りていく狼の姿が映る。ティハの力も、この高さなら届きそうだ。
こうして一行は、夏以来となるラガルティハの森への帰還を果たした。
******
ユエは幸せな夢を見ていた。
父と母、それにムッカとテンにビーオ。皆が一緒に笑っている。傍らにはティハがいて、ユエに何かを囁いてくる。そっと身を預けると、その黒く冷たい鱗が心地よかった。
もっと、長くこの夢に居たい。そう思いながら寝返りを打つと、ふかりと布団が体を包んでくれる。干したばかりのお日様の匂いがする、と思ってから、ふと首を傾げた。
最近の自分たちは人目を避けて野宿をしていたはずなのに……と。
「……?」
目を覚ませば、茶色い木目の天井が目に入った。どうやら人家のようだ。
自分の体調を気遣ってどこかの家に助けを求めたのだろうか、と不安に思う。追撃を避けてわざわざ野宿していたのに、ここまできて迷惑はかけられない。
「早くここから出ないと……って、え?!」
部屋の扉の前に、焦げ茶色の犬がいる。いや、この大きさは……噂に聞く狼だろうか。実物を見たことがないユエに確かなことは分からないが、ピンと立った三角耳や鋭い眼光はどう見ても飼い犬とは思えなかった。
それまで静かに臥せっていた狼が、起き上がったユエを見てのそりと身を起こす。
思わず身を固くして息を飲み見守っていると、そのまま狼は自分で扉を押し開けて部屋から出て行った。
しばらくして、聞き覚えのある悲鳴のような声が廊下から響いてくる。
「どこ行くの?!ねえ、お願いだから食べないで!……あ!ユエ、目が覚めたんだね!」
再び現れた狼の口には、見慣れた白イタチがぶら下がっていた。まるで親猫が子を運ぶかのように首根っこをくわえられたまま、白イタチは嬉しそうに顔を輝かせている。
「テン!……ここはどこなの?」
知った者の姿にほっとして、ユエは肩の力を抜く。
用は済んだとばかりにぽとりと落とされ尻餅をついたテンが、お尻をさすりながら答えた。
「ここは、ラガルティハの森の『ティハの家』だよ。ユエは、帰ってきたんだ!」
「ラガルティハの森……!」
そうか、自分が寝てしまっていた間に、森まで帰ってきていたのか。
少し目眩のする体を叱咤して傍らの木窓を開けると、見慣れた植生の森が広がっていた。旅の中で見たどの森とも違う、ラガルティハの森だけの雰囲気。ティハと出会った湖が、あの日と変わらずキラキラと光を反射している。それが無性に嬉しくて、少しだけ涙が滲んだ。
「それで……」
一緒に外を見ていたテンに、ユエは躊躇いがちに問う。
「あちらの……狼さんは?」
後ろをちらりと見ると、正体不明の狼はまた扉の前でうたた寝している。
「彼はね、ティハの友だちなんだって。怖くないから大丈夫だよ!」
そう、とユエは曖昧に頷いた。先ほど「食べないで」と言っていたばかりのテンの言葉を簡単に信用していいものか。悩んでいると、部屋の扉がノックされた。
「……ユエ。めが、さめたのか」
久しぶりに聞く、舌っ足らずなティハの声だ。
「……はい!どうぞ」
扉を押し開けて姿を現したのは、漆黒の大蜥蜴。窓際に立つユエを見て不服そうに顔をしかめる。
「まだ、ねていろ」
大蜥蜴は部屋を形作る樹々を操りユエの体をベッドに戻すと、布団をふさりとかけ直す。それから、どこで覚えたのか、ぽんぽん、とあやすように布団を樹々で叩き満足そうな表情を浮かべた。
以前は無表情にしか見えなかったのに、いつのまにか蜥蜴の状態でも人間らしい感情が見て取れるのが不思議だ。ユエは大人しく布団にもぐりながら、そんなことを考えた。
それから、と鈍色の『おたま』を差し出すティハ。今まで寝ていたのだろうか、おたまはぶるりと震えた後、ぴょこん、と起立した。
「おはよう、ユエ。寝坊助ね」
「ふふ、おはよう、ムッカ。あなたもね」
森に着いた安心感からか、口調は明るい。軽口を叩き合っていると、ティハが口をはさんできた。
「なにか、たべるものを、よういする。……ムッカにも、てつだって、もらいたい。だから、ふたりに、ちからを、そそいでも、いいか」
どうやらムッカだけでなく、霊代が力を使うと殊更体力を消耗する自分にも力を与えてくれるらしい。
もちろん、と了承すると、ティハの方から暖かい力が流れてくる。心地よさに身をゆだねていると、知らぬ間にムッカが人の姿になっていた。
「じゃあ、行ってくるわ」
ムッカはそう言って手を振り、ティハは狼に何かを告げるように鼻先を付け合い挨拶をしてから出かけていった。
部屋に残るのは、どこから取り出したのかビーオの寄り代である薬匙を抱え布団の上ですやすやと寝息を立てている白イタチと、変わらず扉の前で寝そべる狼。その両方を見てくすりとユエは笑う。
しかし、その笑顔はにわかに曇る。
「……お腹に『力』が流れてる?」
満たされていた幸福感が、お腹を中心に掻き集められて、ぽん、と音を立てて消えてしまったような感じ。そう言えば、分かり易いだろうか。
「前もこんな感じだったかしら」
シュトカ村の事件のときも、王都での怪我のときも、いつだってユエは気を失っているか心に余裕の無い状態だった。ティハから力を流し込んでもらったときの記憶はどれも曖昧だ。
だから、少し気になったものの、撫でた腹の中にいるはずの子供の方に気を取られて、特に原因を追求しようとは思わなかった。
「……元気で生まれてきてね」
まだ平らな腹をさすり、声をかける。この子も、皆も、無事にこの森にたどり着けて良かった。
南の森は冬の木漏れ日すらも暖かい。窓から差し込む太陽に温められ、うつら、うつらと微睡みながら、ティハやムッカが帰ってきたらお礼を言わなければ、ユエはそう思った。




