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風誘う路

 木立の中で息をひそめる。


「ったく、ここじゃあろくに馬も使えねえ」


 すぐそばで聞こえた苛立たしげな男の声と共に、がさがさと葉擦れの音が遠ざかっていく。追手が遠のいたのを知って、ティハはユエを固く抱きしめていた腕の力を抜いた。

 冬でも枯れない常緑樹の、低く繁った葉のおかげで姿を隠すのは簡単だが、追手の数が多く思うように森の中を進めてはいない。『力』を行使できそうな大木はそこここにあったが、とても姿を隠しながら進める状態ではない。冬枯れのせいで頭上は枝越しに空も透けて見えるような有様だった。


 気付けば周囲はすっかりうす暗くなっていた。どこからともなく底冷えのする夜の風が吹いてくる。

 小さく舌打ちをしてティハはユエを抱え直した。今まで夜は天幕を張り寒さをしのいでいたが、今夜はそれもできそうにない。身重のユエには辛いだろう。少し考えて、暖を取らせるために傍らで伏せていた白イタチも一緒に布でくるむ。当の少女は逃亡の疲労で気を失ったかのように眠っていた。


「どうしよう……」


 布の中で不安そうに呟くテンに「日が暮れれば、やりようもある」と返事をしながら、ティハは耳をそばだてていた。面倒なことに、追手たちは灯りを用意しているらしい。カンテラを灯すよう指示を出している声が聞こえる。明かりを持ち出されると厄介だ。暗闇の中で『力』を使うとしても、もう少し距離を取らなければならない。


 どこかで近づく夜に高揚した獣たちが鳴いている。

 追手たちがそれを警戒して騒がしくなっているのを好機に、少しずつティハは移動を始めた。


「おい、いたぞ!」


 怒号。あえなく木立の切れ目で見つかってしまい、また駆け出す。立ちあがってしまえば腰高の木々は役に立たない。途中で見つけた小川沿いに逃げたものの、邪魔がなく走りやすいのは追手も同じでどんどんと距離を詰められる。


「観念しなよ、兄ちゃん!その女を引き渡せば、あんたは罪に問わないってよ」


 すぐ後ろから叫ぶ追手。これ以上走っても無駄だと悟ったティハは振り返って腰に下げていた刃物を抜きはなつ。


「おいおい、よせよ。殺人者を庇うのは賢くないぜ」


 じりじりと距離を詰めてくる男達を睨みながら、ティハは思った。

 ダミアンはこの後に及んで自分の正体を話していないらしい。いっそ話していてくれれば、自分を庇い続けるユエに義理立てするかどうかで悩む必要も無かったのに。彼のそういうところが無性に腹立たしくもある。


 もう、ばれてもいいじゃないか。『力』を使いさえすれば、邪魔なこいつらを屠るのもここから遠ざかるのも容易い。ユエを守るためには、そうしなければ。

 追い詰められ、そう決断しようとしたとき。


――アオ――――――ン……


 何かが吠えた。遠吠えは存外近くから発されていて、あまりの音の大きさにびりびりと空気が震えるのが分かる。


「おい!狼だ」

「ここいらのは冬の間飢えてるから人も襲うんだ!」

「なんだって?!」


 慌てふためく追手。ひとときもしない内に周囲の繁みから焦げ茶色の何かが複数飛び出してくる。

 固い毛に覆われた巨体。赤い口内で鋭い牙がぞろりと光った。人よりも大きな、それは紛れもない狼だった。


――ガルルルル


 脅すかのように唸り声を上げた一体がバネのように体をしならせてティハに飛びかかる。

 ティハが狼からユエを庇うように背を向ければ、ドンと強い衝撃と共に地面に引き倒された。


「う、うわああ!」

「ど、どうする?!」

「どうせ貴族殺しで処刑される奴なんだ、放っておけ!」


 当のティハが苦悶の声すらあげない一方で、自分たちが襲われた訳でもないのに悲鳴をあげた男たちが散り散りに逃げ出す。その後ろを、別の狼たちが跳ねるように追い立ててていく。


 追う者と追われる者の発する騒々しい音がずいぶんと離れた頃、ようやくティハは苦しげに口を開いた。


「……おい、重いぞ。もういいだろう」


 その言葉にグルル、とどこか楽しそうに喉を鳴らした狼は、のそりと体を退かす。そして、すんすんと何かを確かめるようにティハの体を嗅ぎまわった。


「……お知り合い?」


 狼に押し倒されたときに投げ出されたらしい白イタチが、ころりと地面に転がったままの体勢でそっと呟く。まるで動けば喰われると言わんばかりの怯えようだ。


「……森で会ったことがある」


 ティハが答えれば、狼は挨拶するかのようにべろりと青年の顔を舐めた。




「……グウ」


 先行する狼が「こっちだ」と言わんばかりに唸る。その後ろを、ティハは疑うことなく、テンは首をひねりながら着いていく。


「……ほんとにこっちであってる?見張りのいそうな街道から離れられるのは嬉しいんだけど、なんだかラガルティハの森からも離れていっちゃってるよ」


 地図の霊代であるテンが不安そうに訝しむ。


「そもそも、ラガルティハの森に狼はいないんでしょ。ティハはどうやってこの狼と出会ったの?」


「……彼らはラガルティハの森に普段はいないが、冬の間姿を見せる」


 ティハがそう答えれば、狼が楽しそうにグルル、とまた唸った。

 テンはその声にビクつきながら、また首をひねった。


「シュトカ村の近辺から森に入ってるなら、きっと大騒ぎになってるよね。どこかに、ラガルティハの森につながる別の道があるってこと?」


「……どうやら、そうらしい」


 そう言って立ち止まったティハが見つめる先。

 苔生した地面に、ひっそりと風穴ふうけつが開いている。狼は誘うように一度振り返ると、その中に躊躇うことなく入っていった。


「ここに入るの?」


 テンが怯えるのも頷ける。周囲の湧き水が流れ込む風穴の中は真っ暗で、数歩進めば一寸先も見えないような闇が広がっていた。本当のことを言えば、ティハでさえ躊躇する。こういった洞窟に迷い路は付き物だ。人間では尚更入ろうと思わないだろう。

 闇の中で、狼の瞳が光った。こちらが着いてくるのを待っているようだ。

 

「……狼たちは夜目が効くし、耳も鼻もいい。たぶん、大丈夫だ」


 ずいぶん前にラガルティハの森で襲いかかってきたのを撃退して以来、彼の狼はティハのことを仲間か、上位の獣だと思っている節がある。毎冬、わざわざ土産になるようなものを持って森まで会いに来ていたのが良い例だ。


「悪いようには、ならない」


 そう決断して、ユエを背負ったティハは風穴の中に足を踏み入れた。

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