逃避の日々
「ああ、もうすぐだな」
さざめきの止んだ川面を見て、船頭は腰を上げる。
潮の力で逆流していた川が大人しくなり、対岸への渡河が容易になるのが昼前。早朝は川下からの客を乗せて川を遡上し、昼間は周囲に橋の無いここ一帯で渡し船として働く。そして夕方になればまた川を下ってチェッタの街に帰る。それが彼の日常だった。
「すみません。ふたり、対岸まで乗せてほしいのですが」
そう言って簡素な身なりをした黒髪の少女が声をかけてきたのは、船を待っていた人々をあらかた渡し終え、人気がなくなった頃だった。
「ああ、構わないよ」
頷いた少女から駄賃を受け取ると、さっそく船に案内する。もう一人はどこだろうと見渡せば、大きな荷物を背にした少女の後ろから、弟だろう、毛色は違うものの少女に良く似た顔の少年が俯きがちについて来ていた。
「弟さん、ずいぶん顔色が悪いね」
だぶついた服を着た少年はどこか虚ろな表情で青白い顔をしていた。船を漕ぎながら、船酔いだろうかと心配して声を掛ければ、黒髪の少女が「大丈夫です、ご心配ありがとうございます」とぎこちない笑みを浮かべる。
「そうかい。ならいいんだけど」
船の中に吐かれたら後始末が面倒だな、とふと思ったが、そう長い距離でもない。さっさと対岸まで連れていけばいいだろうと船を漕ぐ腕に力を込める。
後ろをちらちら気にしながらの渡河は、いつも以上に長く感じた。ガコン、と対岸の桟橋に船が付いたと同時に思わず安堵のため息が漏れる。
「さあ、着いたよ」
よろよろと立ちあがった少年が危なっかしく見えて、船頭は手を伸ばす。支えてやろうと腕を掴めば、足に力が入っていなかったのか少年はぐらりと簡単に傾いだ。
予想外の弱さに驚いて思わず船頭が抱きとめると、少年は身を固くする。
「大丈夫かい、坊主。……って、お前、坊主じゃなかったのか。すまんすまん」
少年……いや、少女の身体は柔らかかった。短髪なうえ、男物の服を着ているので少年かと思っていたが、この華奢な体の造りは女のものだ。経験上そう悟った船頭は、ぱっと身を離して謝る。
「……いえ。大丈夫です」
聞こえたか細い声は、やはり女のものだ。
船頭はおや、と首を傾げる。その声に既視感を覚えたのだ。
「嬢ちゃん、前にどこかで会ったかい。なんだか聞き覚えのある声のような……ああ!」
思い出した、あの時の子だ。船頭は頷く。確か、夏の終わりにチェッタの桟橋で言葉を交わした少女だ。よく見れば顔も、髪色も同じ。
可愛らしく、愛嬌のある子だったので彼はよく覚えていた。そんな子が女にあるまじき短髪になってしまったうえ男の格好をしているなんて、と思わず目を剥く。
「どうしたんだい、そんな成りになっちまって」
「いえ……すみません、先を急いでいるので」
そう言葉を濁した少女は、連れの黒髪の少女に腕を引かれあっという間に姿を消してしまった。
ぽつん、と残された船頭は呆気に取られる。あんなに明るく朗らかだったのに、何だか人が変わってしまったかのような少女の態度に少し寂しさを覚える。
「……はあ。なんだかなあ」
少女たちが去った桟橋には、船を待つ人もいない。
気落ちした船頭は、今日はさっさと帰って酒でも飲もうと早々に船を川下に向けたのだった。
「あの森を越えれば、ラガルティハだよ!」
テンの言葉に励まされ、人の姿で歩いていたティハは頷く。
チェッタの街を迂回した先は草原で、ティハの足代わりになるような木々がほとんどなかった。悪阻でぐったりしたユエを抱え、一段と落ちてしまった速度に焦りを感じながら黙々と足を動かす。
視線の先にある森を越えれば、ラガルティハの森を眼下に望む切り立った崖がある。ティハの力が崖下の木々まで届くかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。それでも駄目なら、崖沿いを歩いて行くしかない。
「……ユエ。大丈夫か」
話しかければ、背中でユエが身じろぎする。どうやら眠っているらしい。ぬくもりを発する体を抱え直し、また歩き始める。大きな揺れはユエの吐き気を誘発するので、走ることはできない。
悪阻で弱ったユエに負担を掛けまいと、ムッカとビーオはそれぞれ寄り代の姿に戻り荷物の中に収まっていた。
唯一、案内役のテンだけが足元を走っている。丸々としていたお菓子好きの白イタチは、走りはじめてから心無しかほっそりしたように見えた。
「……ティハはさ、平気なの?」
ちょこちょこと足を動かしながら、テンが問う。相手の質問の意図が読めずに、ティハは首を傾げた。地面を見つめながら走るテンが、少し考えてからまた言葉を続ける。
「ええっとね、……ユエは、ダミアンの子供を産むわけでしょ。嫌じゃないのかなー……って」
「どうして、嫌だと思わなければならない。同種同士が子を設けるのは、当たり前のことだ」
「うーん、そうなんだけど……」
何て言えばいいのかなー、とテンは頭を振る。どうやら上手い言葉が見つからないらしい。
ティハはひっそりと溜め息をついた。
「……正直に言えば、俺は安心した」
目を丸くした白イタチが、「どうして?」と聞く。
「『一緒に帰ろう』と言ってユエを連れ出した。……でも、それはユエから家族を奪ってしまったようなものだ」
『人としての幸せ』を奪うのか、というダミアンの言葉は、逃避行の中でどんどんと大きくなった。
人間に追われてしまえば、祖父のレジェスにも、シュトカ村のバルバやレオにも会えなくなる。隔絶した暮らしをすれば、子を成す機会も無いだろう。種の違うティハではどう足掻いても与えることのできないもの。
要するに、後ろめたいのだ。ユエは自分のものだと、大事な宝物だと隠しておきたい癖に、いつか彼女から『人としての幸せを返して』と責められやしないかとびくびくしている。
「……だから、子ができたと知って、ほっとした」
これで、ユエの家族がひとりできる。そうすれば彼女の気も紛れるに違いない。同族に会いたいと思うことも無くなるだろうと……ティハはそう、信じていた。いや、信じたかった。
テンが「そっか」と小さく呟き、また前を向く。
そうしている間に森は近づきつつあり、つい足早になるのを諌めながらティハ達は進んでいた。
「ここは街道が近いから、注意して」
テンが声をあげた。と、ほぼ同時に馬の嘶きが聞こえ、森の影から馬に騎乗した人間がちらちらと出てくるのが見えた。
「追手だ!」
叫んだ白イタチを掴み、「ごめん」と背中で眠るユエに小さく謝ってからティハは猛然と森に向かって走りはじめる。
追手は森の中に潜んでいるが、木々が近づいてしまえばこちらのものだ。追手たちもまさか自分達に向かってくると思っていなかったのか泡を食ったかのように騒ぎ始めた。
「すり抜ける気だ!」
「大丈夫だ、荷物を背負った男の足なんて大したことねえよ!」
「女は霊代持ちなんだぞ、注意しろ!」
木々が『力』の射程に入る。集中しようとティハが手を伸ばせば、変化がゆるんでぞわりと黒い鱗が顔に浮かぶ。
その瞬間、掴んでいた白イタチが手に鋭い歯を立てた。
「……っつ、何をする、テン!」
「駄目だよ!ティハのことはばれてないんだ!ユエがやってきたことを無駄にする気なの?」
ティハは唇を噛み、前を見据える。
追手との距離は近い。至近距離で撹乱するように方向を変え、馬の足が鈍るだろう低い木立の繁る場所へ飛び込むしか、方法は無かった。




