水の加護
最終章開始。
「おじさん、馬の世話終わったよ」
「ああ、ありがとう。お嬢ちゃんは若いのによく働くねえ。ほい、これ駄賃ね」
「ありがとう」
赤ら顔の宿の主人から得た銅貨を握りしめ、少女はにこりと笑う。
寂れた町にひとつだけある宿の主人は、そんな彼女を見て残念に思う。あの野暮ったい長さの黒髪を整えれば可愛らしい顔も栄えるだろうに、と。
そんな風に思われているとは露知らず、少女は得たばかりの賃金で持ち帰りのパンとスープを頼む。はいよ、と女将から渡された湯気の立つ器に嬉しそうに金の瞳を細め、いそいそと今日のねぐらへ急いだ。
「ユエ、今帰った」
言葉使いをがらりと変えた少女が帰宅したのは、町はずれの雑木林の中。
少女――いや、ユエの姿をした『大蜥蜴』の力で絡まりあった木々は、簡易天幕もかくやと、雨漏りひとつしない暖かな空間を設えていた。
「ティハ、おかえりなさい」
中で身を休めていたユエが微笑んで出迎える。王都を出て以来、精神的な疲れからか体調が優れず、彼女はこのように寝て過ごすことが増えていた。
指名手配されたことを知った一行は往路で通った街道を避け、ティハの力を存分に使って夜の間に王国を突っ切っている。ティハも食糧確保のためにユエの姿を模し街に入ることはあったが、それ以外ではできるだけ人通りの少ない場所を選ぶようにしていた。
テンが言うには、この場所は王都エミグディアと橋の街ドゥルセの間あたり。
人の足では到底考えられない速度で帰路についていることになるが、ラガルティハの森に帰るためにはいくつか渡らなくてはならない河がある。そのひとつが、ドゥルセの大河だった。ここは川幅が太すぎてティハの力も対岸まで届かない。
「橋はもちろん見張られているでしょうね」
「そうだね。川沿いを下って、離れた場所で渡しの船を雇うしかないよ」
ムッカとテンの言葉に、ティハはこくりと頷く。ビーオは滋養強壮に効く薬草を自分で調合し、ユエに飲ませている。
「ティハが姉で、ユエが弟ということにすれば、何とか誤魔化せると思うわ」
ムッカがちらりとユエを見て提案する。髪色は同じでも、性別が違ったり連れの姿が異なるだけで人の目はずいぶん欺ける。
ムッカやビーオは本性に戻れば居ないも同然だし、テンは荷物に押し込めばなんとかなる。そして女性の身で髪を短く切られてしまったユエは可哀想だが、今は追手に気づかれにくいというだけでも僥倖だった。
*****
執務の合間に窓から外を眺めていたレジェスは、ぴくりと白いものが混じった眉を動かす。
目を細め何かをじっと凝視すると、唐突に侍女のアルマに外出すると告げて足早にドゥルセの街に出た。帽子を目深に被り、急いているかのようにかつかつとステッキを付いて、伴も付けず一人歩く。
屋敷からそれほど離れていない、川沿いに出たところで歩みを止める。周囲には不思議なほど人がおらず、レジェス自身もそれを確かめると川面に視線を落とした。
「……アデライダ様。いらっしゃいますか」
そう微かに声を掛け、じっと待つ。数分待っても応えが無いのに、それでも身動きひとつせずレジェスは川面を見つめつづけた。
「……ほんに、面白味のない男よの。多少うろたえてくれれば可愛げがあるものを」
ぱしゃり、と水の跳ねる音がして、レジェスはすっと視線を向ける。そこには不機嫌そうに眉をしかめた美女が川に半身を浸した状態で気だるげに横たわっていた。
豊満な肢体をゆるやかに波打つ髪が隠し、その濡れた髪を掻きあげれば目鼻立ちのくっきりした美貌が露わになる。一言で言えば魅力的としか表現できない女だが、跳ねた水の下にある下半身は魚の化身だった。
「お久しぶりでございます、アデライダ様。頼みがあって参りました」
アデライダと呼ばれた美女はちっと舌打ちする。
「まったく、妾を褒めるなりなんなり、女を前にしてするべき挨拶はいくらでもあるだろう?……これだから老いた男は好かんのだ」
「彼方から近づく光の束に、お気づきですか」
レジェスはアデライダの癇癪を受け流し、端的に問う。美女は胡乱気な視線を寄越した後、はあと深い溜め息をついた。
「……もちろん気づいておる。以前もここに来ていた、稀な存在のことだろう」
「はい。我が孫、ユエを守護してくださる方です」
「そやつがどうした」
「王都に向かわれたはずが、またこちらに戻っておいでのようです。……できれば、アデライダ様に接触を図っていただきたいのですが」
草木と契るティハの繋がりは、遠目に見ても分かるほどまばゆい。繋がりを視る能力をこのアデライダという霊代から授けられているレジェスには、それがはっきりと視えていた。
「おまえが行けばよいだろうに。なぜ妾が行かねばならん」
「……私は動けぬのです」
カルバハル領主の息子、ブラウリオから早馬で届けられた手紙。ユエが殺人の汚名を着せられたという危機を知らせるその内容は、同時にレジェスへの注意喚起も含まれていた。下手に動けばバルデムから横槍が入る、全てこちらにまかせろ、と。
そう言われてみれば確かに周囲にはバルデムのものと思われる目が光っていて、忸怩たる思いで動きそうになる手を押さえつけていたのに。
それなのに、可愛い孫を守護しているはずのティハの姿が視えてしまえば我慢できるはずもない。
「ユエは、リームルバ家の男児を産む可能性のある唯一の娘です。彼の血を絶やすわけにはいかないでしょう。……アデライダ様ならば、行ってくださると信じております」
仔細を説明した後そう言えば、アデライダの顔が忌々しげに歪む。
最初に契約した男に執着するこの霊代は、その子孫にも、周囲にも温情を与える稀有な存在だった。だからこそ、断ることができないとレジェスは知っている。
「……ふん。今度の男の子は素直で可愛いのがいいのう。お前のようなのは一度でもうたくさんじゃ」
ばしゃん、と鬱憤を晴らすかのように大きく跳ね、アデライダは姿を消す。
その言葉を肯定と受け取ったレジェスは大きく安堵の息を吐いた。
遠く、ドゥルセの街明かりが見える。
ずいぶん離れた川縁に野宿の用意をしたはずなのに、多くの人を抱えるあの街はこの距離でも煌々と輝き闇夜にぼんやり浮かんでいる。
「ユエ、大丈夫ですか?」
「……うん、平気よ。今日は気分が良いから」
気分転換に付き添ってくれたビーオの気遣いに、ユエは礼を言う。ずっとユエの看病をしていた小人は少々過保護気味だ。
ティハとムッカは夕食の準備をしている。テンは移動の間終始案内をして疲れているので今は寝ているのだろう。
その間、毛布を身体に巻き付けてユエは川辺を歩いていた。吐息が白く煙るほど気温は低いが、ここのところずっと寝ていたユエにとって、頭を冴えさせてくれる冷たい空気が今は心地いい。
「おじいさま、お元気かしら」
ぽつりとつぶやいて、祖父の身を案じる。ユエが逃げ出したことで不利益を被っていないか、まさか捕えられていやしないかと、それだけが心配だった。
「あやつは心配せんでもなかなか死なんわ」
聞き慣れない言葉づかいに、空耳かと思って周囲を見渡す。すると艶を含んだ耳触りの良い声がまた響く。
「ここじゃ、ここ」
笑いを含んだような声は川の中からだった。ビーオが警戒の声をあげたが、ユエは不思議と恐れは感じず、そろそろと近づく。
「レジェスの孫、ユエとはおぬしか?」
その姿が暗闇の中で浮かび上がる。たゆたう水に身を任せた、ドゥルセの石像そっくりの女性が、ユエを指差し艶やかに笑っていた。
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