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去りゆく調べ

「……っ」


 ああ、どうしよう。これは夢?

 震える指先で確かめるように彼の頬をなぞる。また名前を呼ぼうとして、今度は声が出せないことに気づいて、ユエはやっとこれが現実だと気付いた。

 はくはくと空気だけが漏れる唇に気付いたティハが目を見開く。


「声、出せないのか。……すまない、あのとき見落としていた」


 不快気に眉を寄せた彼の指がユエの喉を撫でると、ふわりと温かくなって常に疼いていた喉の痛みがすっと引いた。力を使って治してくれたのだと気付く。


「あ、ああ……ティ、ハ、戻ってきて、くれたんですね」


 声が出るようになったユエが絞り出すように言えば、ティハは不思議そうに首を傾げる。


「オレは、どこにも行かない。ユエと一緒にいると、決めているから」


 ユエを抱きかかえる彼の姿は人間で、それも裸のまま。いつもなら真っ赤になって怒るところだけれど、そんなことも気にならないくらい、言われた言葉が嬉しくてたまらない。

 ユエはティハがもうどこにも行かないようにと、彼の身体に腕を回す。ぎゅっと力を込めれば、ティハがはあ、と熱い吐息をついた。

 少しの間そうしていただろうか。ふとティハが低い声を出す。


「……ここにいると、ユエは殺されるか、ダミアンの番いになるしかないんだろう?」


 それを聞いたユエの身体は勝手に強張る。その背を撫で、「そんなのは、許せない」とティハはどこか別の場所を睨みながら、ほの暗い呪詛を口にする。

 そして表情を一変させると、苦悩するユエを労わるように優しく、囁くように甘言を吐いた。


「ユエ……森に、帰ろう」


 ラガルティハの森に、帰る。あの温かな場所でティハと共に暮らす。

 ぶわりと広がった幸福感にこれが正解なのだと言われた気がして、涙が出そうになる。何より、ティハ自身が言ってくれたというだけで、すべてが許される気がした。

 逃げれば祖父やダミアンが罰を受けるかもしれない、とか。そもそもどうやって森まで帰るのか、とか。そんな諸々の事情を考えることもできないまま、ユエは嗚咽で震えながら何度も何度もティハの言葉にうなずいた。




 屋根裏に続く階段のそば。小さな影が三つ、飾られた大きな壺の影から周囲の様子を伺っている。


「やっぱり、見張りが増えてるわね……」


 困った、と言わんばかりに小さくおたまがつぶやく。じっと白イタチをながめ、「あんた一番足が速そうだから囮になれば?」と唐突に強請り始める。それにぶるぶると首を振って、白イタチは怯えたように小人の後ろに隠れた。

 小人は自分より遥かに大きい白イタチを振り仰ぎ、呆れたような顔をする。


「……隠れきれてませんからね、それ」


「むりだよ!あんなに騎士がいるんだもの、すぐに捕まっちゃう!」


「だってねえ……それくらいしか方法がないんだもの」


 もっともな意見に、ううん、と霊代たちは三者三様に唸る。

 屋根裏への階段はそう幅があるわけではない。監視の目をかいくぐることは難しく、そうなれば誰かが囮になるしかないのは明白だった。

 そして白イタチの姿をしているテンは人間より素早く、小回りも利く。跳ねることしかできないおたまよりも、歩幅が極端に小さい小人よりも明らかに適任だ。


「……わかったよ。やるよ、やればいいんでしょ」


 ぶちぶち言いながら了承したテンは、「まずは準備」と言いながらおいっちにさんっし、と体操を始める。どうみても怖気づいているだけのその背中を、ムッカが「早く行きなさいよ」と容赦なく柄でぶつ。

 反動で壺の影から飛び出してしまったテンは、「うわわ」とよろけながらたたらを踏んだ。


「おい!イタチがいたぞ!!」


 早くも騎士の一人がその姿を見つけ、叫んだその時。

 どかん、と建物が大きく揺れ、突然一部の天井が崩壊する。


「うわあああ!!」


 不運な騎士がその崩落に巻き込まれ、悲鳴をあげる。もうもうと立ち込める埃の中、あっけにとられていた霊代たちははっとして顔を見合わせた。


「……今よ!」


 何が起こったのか分からない。しかし幸いにも階段は無傷だ。

 ムッカの掛け声に、そろって三体は駆けだした。




 混乱する騎士たちの側をすり抜け、屋根裏にあがった彼らが見たものは。

 大きく屋根が抉れ、吹きさらしになっている廊下。ともに吹き飛ばされたのだろう、唯一ある部屋の扉はどこかに消え、そこに見覚えのある蠢く木々がうねうねと侵入していた。


「ティハ!いるの?!」


 ムッカが声を張り上げながら部屋に飛び込む。

 そこに居たのは、均整のとれた裸体を惜しげもなくさらした黒髪の美丈夫。空から落ちる白い雪で部屋の空気は凍えるほどだというのに、一向に気にした様子もない。それだけで人間ではないと知れる、一種異様な雰囲気があった。


「……ムッカ」


 その腕に少女を抱え、人の姿をしたティハが振り向く。瞳を爛爛と輝かせ、どこか陶然とした表情をした彼はいつもと様子が違う。ムッカは恐れを感じ一歩身を引いた。


「……ユエを、ユエをどうするの」


 ティハに抱かれた少女は、大事な大事なムッカの主。

 震える声で問えば、それまで丸かったティハの瞳孔がまるで蜥蜴のようにきゅっと細くなった。そんな粗を見せるようなことは今まで一度もなかったのに。興奮しているのだろうか。


「森に、連れて帰る。……ムッカたちも来るだろう?」


 追いついてきたテンとビーオがおそるおそるムッカの身体に掴まる。同じ霊代とはいえ、圧倒的に存在感が違う今のティハが彼らも怖いのだろう。

 否やを唱えてもこの力量差ではどうすることもできない。それにティハがユエを害することは無いとムッカは知っている。


 ユエの行くところが、自分たちの在るところ。


「……あたしたちも、もちろん行くわ。でもそのままじゃユエが凍える。せめて何か被るものを持っていくべきよ」


 詰まる声でどうにか助言するのがやっとで。ムッカはぎこちなくティハの操る木々に身を預けた。

 毛布にユエを包み、自身もシーツを巻いたティハが屋敷を去ろうする。


「待て……!待ってくれ!!」


 荒い息をしたダミアンが屋根裏に現れる。それに冷めた視線をちらりと向け、ティハは口を開いた。


「ユエは、オレと行く。そう彼女(・・)が決めた。……だから、邪魔をすればお前も殺す」


 ぐっと何かを堪えるようにダミアンの顔が歪む。貴族で研究者でもあるその青年を、ティハはじっと見た。


「……人間は、面倒なしがらみが多い。ユエには辛いだけだ」


 密偵であることを厭うた父親。商家にとらわれることを嫌った母親。彼らはそこから逃げようともがいたが、結局ユエを残して死んだ。

 そしてその因果は彼女自身を死に追い込もうとし、密かに続くと思われた霊代との暮らしも取り上げ、身を立てるために学んだ薬の知識も披露すれば欲望にまみれた人間が次々に現れその身を汚そうとする。


 人の繋がりが何だというのか。ユエを傷つけるばかりなら、いっそ自分が囲うて閉ざし、森で守ったほうがましだ。

 何より。


「お前には、渡さない」


 射殺さんばかりの視線を残し、ティハはその身をひるがえす。

 止める術を持たないダミアンは、血が滲むのも構わず唇をきつく噛んだ。




 吹雪はどんどん酷くなる。視界が遮られるほどの激しさに、王都の人々は皆固く戸を閉ざした。

 誰も見上げることのない空を静かに影が過ぎる。それは驚くべき速さで南に向かい、何人も超えることができないと謳われた城壁を難なく乗り越え、消えた。


 ユエ・カファロ。十七歳、女。小柄で珍しい白金色の髪に褐色の目を持つ。

 バルデム領主ガスパルを殺害し拘束されるが、逃亡。霊代を三体所有。それぞれ十歳程の少女、白イタチ、小人の姿を模し、少女は殺傷・治癒能力を有すると思われる。

 彼の者を一刻も早く捕え、王都に連行すべし。


 その日、アベラルド王国にひとつの勅令が出された。

ご覧いただきありがとうございます。

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