幸せの定義
ぎっしりと本が詰まった壁が四方を囲む書斎。
伯父でルーシェン領主でもあるアルトゥロへの手紙をしたため、ダミアンは封蝋を施す。婚約を知らせるその内容を見れば「勝手なことを」と伯父が怒るのは分かっていたが、ユエの命には代えられない。伺いを立てる時間も、了承を待つ余裕もダミアンには残っていなかった。
「これを」
「はい、ダミアン様。お預かりいたします」
身分の高い騎士たちが常駐することになった屋敷の仕事は驚くほど多い。すれ違いの多い生活のせいで久方ぶりに見た気がする年老いた侍女に手紙を託し、ダミアンは腰をあげる。
吐いた溜め息は重い。後回し後回しにしてきたが、期限も迫っている。気は乗らない。それでも、これからやらなければならない事は絶対に避けては通れないものだった。
チカからユエは眠っていると聞き、屋根裏に足を運ぶ。
少女は部屋に訪れたダミアンに気づくことなく、苦しげに眉を寄せたまま眠っている。その腫れたまぶたを労わるように触れ、頬を撫で、「ごめん」と小さく呟いた。ユエの気持ちが自分に無いことは嫌というほど分かっている。行為の最中、声の出せない彼女の唇が何度も蜥蜴の名を口にしていたのに気づいていたから。
それでも、と自分とは異なる柔らかな色合いの金の髪を梳いて、懺悔する。
君を失いたくない。渡したくない。近くに居るだけで、愛おしさが募る。
いつか、僕のほうを見てほしい、と暴れる身勝手な欲求を許して。
一歩屋敷の外に出れば、吹きすさぶ雪が目についた。はあ、と白い息を吐いて「都合のいいことだ」とダミアンは呟く。
観賞用に造られた中庭は屋敷のあちこちから見ることができる。いくら木々が大蜥蜴を隠そうとも、まだ日の高い今時分は誰に気づかれるかわからない。そのうえで、この吹雪の目隠しはダミアンにとって、いや大蜥蜴にとって都合のいいものになるだろう。
「ティハ、いるか」
「……」
返事は無いが、蜥蜴が身動きしたせいでその体から雪がこぼれ落ちる。
「ユエは、僕と正式に結婚する。……だから、君とは一緒に行けない。一人で帰ってくれ」
緊張から固い声でそう告げると、ぱっと開いた金色の瞳がダミアンを見る。射抜くようなその視線は険呑な色を帯びて、ゆらゆらと感情の色が揺れるのが見て取れた。
偽装婚約を申し出たあのときとは比べ物にならない、強い嫉妬の色。ああ、やっぱりこいつもユエのことを想っている。ダミアンはそう確信する。
「君は、所詮蜥蜴だろう。人間ではない。ユエと一緒にはなれないんだ」
「……かってに、きめるな」
低く唸るように蜥蜴は反駁する。黒い巨体が揺すられ、威嚇するように赤い口内が見えた。ふつうなら怯えてもおかしくない状況だったが、ダミアンは一歩も引かない。
「ユエを連れて、それでどうする?領主殺しの罪を着せられたままでは、思うように街に出ることもできないだろう。彼女に、家族にも知り合いにも会えない生活を強いるつもりか」
ダミアンがそう言えば、蜥蜴が苦しげに呻いた。
ユエには祖父という血縁も、シュトカ村の師匠や友人もいる。ティハとして彼女の側にいた蜥蜴ならば、ユエがいかに彼らを大事に想っているかよく知っているはずだ。だから、ダミアンはそこを突く。狡くても、卑怯でも構わない。
「あのおとこは、おれがころした。そういえば……」
「殺したのは自分だと、そう言うのか?……それでも結果は変わらないよ、ティハ。稀な存在である君は捕えられ、閉じ込められる。ユエには会えない。もし彼女を連れて逃げても、追い回されるだけで、平穏など望めない」
冷たく、最悪の結果だけを連想させるように。そして、ユエはダミアンとここに残るのが最善なのだと、そう言い含める。
「僕と結婚すれば、ユエは減刑される。処刑されることもない。家族に会うこともできるし、子だって成せるかもしれない。……それが、人としての『幸せ』ということだろう?」
ぎゅっと迷うように瞑られた蜥蜴の瞳。
さあ、諦めると、言ってくれ。ダミアンは汗の滲む手を握りこむ。
「おれは……おれ、は……」
次に蜥蜴の両眼が開かれた時、その瞳は怖ろしいほど輝いていた。燃えるように光るそれは、元の金色より淡い、少女の髪と同じ色。
「ユエと、いたい!」
ざわり、と周囲の地面が揺れる。漆黒の巨体が跳ねると同時に、木々が驚くべき速度で伸びていく。ユエの居所を知らないはずの蜥蜴が目指しているのは、彼女のいる屋根裏のあたりで。
どうして。ダミアンの顔は苦渋に歪む。
「……ティハ!!!」
煙る雪景色の向こう、見上げた頭上でどかん、と何かが破壊される音がした。
ユエはまどろむ。
裂かれた体の痛みはとうの昔に引いているのに、心はしくしくと血を零したまま。自覚した途端砕かれたティハへの気持ちは破片となって心に降り積もる。
ダミアンはずっと謝っていた。君を死なせたくない、そう言って、何度も何度も許しを乞うように、苦しそうに。だからユエも悲しくなって、ずっと泣いていた。酷い暴力にさらされているのに彼をなじることもできなくて、どうしても堪え切れなくなったときはティハの名を呟いた。
眠る前、チカはとうとう雪が降ってきた、と言った。
寒さの苦手なティハは、もう王都を出て南に向かってしまったのだろう。彼はもういない。
「生きていてほしい」とダミアンに何度も懇願され。
このままではムッカたちも閉じ込められたままだと聞かされ、自分もティハと共にあることを諦めなければいけないと自覚した。結婚の話に頷いたあと、また涙がこぼれて、ダミアンが痛切な顔をしたのが分かったけれど簡単には止められなかった。
蜥蜴で霊代という、ユエとは別の種族、別の存在であるティハ。
そんな彼を好きという自分はおかしいのだろうか。言葉を交わし、労わり合い、側にいる。それだけで嬉しいのに。それ以上、望んだりはしないのに。
会いたい。もう一度だけ、会いたい。
迷惑だと思われても構わないから、この想いだけは伝えさせてほしい。
必死にそう祈れば、びゅう、と冷たい風が吹く。寒い、凍えそうだ。この想いは祝福されないものだと言われたような気がして、また涙が滲んだ。
ティハと一緒にいれば温かいのに。御者台でともに布にくるまった時のように、ユエが凍えていれば人の姿で温めて。泣き疲れて体が火照っている時は、ひやりと冷えた蜥蜴の身体で優しく癒してくれる。
「ティハ、ティハ……!」
幼子のように泣きながら、彼の名を呼ぶ。ぶるりと身を震わせると、ふいに温かな何かに包まれた。よく知っている匂いに安堵して、身体は勝手に弛緩した。ほっとして、なんだろう、と考える。
「ユエ」
呼ばれて、意識が浮上する。そっと目を開ければ、ユエのよく知る金色の瞳がそこにあった。
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