おたまが少女と出会った理由
「ねっ、ねっ、ユエってば、ここも大事なの!ほら、わかるでしょ、ここよ!付箋つけて!」
ムッカに急かされるままユエはぴりりと紙片をちぎると、ムッカが示したページに挟み込む。それを見届けて紙片が飛ばないようにそっとページをめくったムッカが、内容を確認する作業に戻る。
しばらくしてまた重要箇所を見つけて叫ぶムッカの指示に従って、ユエが紙片を付箋替わりに挟む。そしてまたページがめくられる。
この作業が延々一時間ほど繰り返されて、最初に用意した食後のお茶もすっかり冷めてしまった。
冷たくなったそれをすすりながら、ユエは淡々と『これで彼の心は私のもの!女子力向上☆マル秘レシピその一』に付箋を挟む行為を続ける。
傍らではティハが今日の収穫のお菓子を広げ、ぽりぽりと暇そうにかじっている。
たまにユエが美味しそうなお菓子を見つけて羨ましそうな視線を向けると「食べるか?」と差し出してくるので、大人しくご相伴に預かっていた。
「ムッカ、料理はそんなに重要な点が、多いのか?」
片側が異常に厚くなり始めた本をながめ、ティハが指で付箋をつつく。
「もちろんよ!料理ってね、とーっても奥が深いの。特に、初歩は嫌ってほど繰り返し練習しても足りないくらいよ!」
確かに、さっきから付箋が入れられているのは野菜の見分け方や下処理の部分ばかりだ。
例えば、「じゃがいもの芽は中毒性があるので必ず取ること。通常よりも早く収穫される新じゃがいもは皮が薄く、剥かずとも食べられるが、緑がかっているものは煮炊きしてもえぐみが強いので注意する」や、「固い肉は包丁で叩いて繊維を切るか、酒やはちみつを揉み込んでしばらく置くと柔らかく食べられる。その時に臭み消しの薬草や香味野菜を同時に漬けるのも良い」といったものがあげられる。
これを読むマリーが少し可哀想になるほどの付箋の量だが、ユエも料理をはじめた頃にムッカにうるさいくらいに注意されたことばかりだ。
それにこの本は、自ら料理をすることの少ない王都の裕福な子女向けに編纂されたためか、めずらしく図解が多い。野菜の切り方から道具の使い方まで忠実に載っているので、料理が苦手と言っていたマリーにも易しいはずだ。
「んー……こんなものかしらね」
ようやく満足したのか、ムッカが本を閉じる。
ユエはため息をつきながら本を布でくるむと、いつも使っている籠の底に収めた。これで明日渡し忘れでもしたら、マリーはともかくムッカは非難轟々だろう。
まったく、自分が読んでいない『その七』は貸すのを渋っていたくせに、『その一』から貸すことになった途端、ムッカは機嫌が良くなった。それどころか、「マリーが料理上手になるよう応援する!」と盛り上がる始末だ。
調子がいいんだから、とユエは肩を落とした。
「……ムッカは、本当に料理が好き、なんだな」
一連の作業の間、じっとムッカの様子を見ていたティハがつぶやく。
「そりゃあ、そうよ。だって、あたしは『おたま』なんだもの。料理をおいしくするために生まれたのよ」
ぴんっとおたまの身を立てて、ムッカが胸をはる。
それを聞いたティハが、解せない、とでも言いたげに眉を寄せて首を傾げた。
「ムッカは、ユエを慰めるために、生まれたのだろう?どうして、料理をおいしくすると、ユエは慰められるんだ?」
「あっ……」
ムッカが狼狽えたように声をあげた。ユエは持っていたカップをぎゅっと握りこんで身を固くする。
……今、ティハは「慰めるために生まれた」と言ったか。
ムッカは、いつの間にティハにそんなことを話したのだろう。ユエは、一度も話していないはずだ。
「……その、ね。うーんと……」
ムッカは返す言葉が見つからないのか、しきりに唸っている。
しまった、とでも言いたげなその様子に、ユエはふう、と身体の力を抜いた。自分より慌てている者を見ると逆に落ち着くというのは本当らしい。
別に、ムッカが生まれた経緯を教えても彼との関係は何も変わらない。少し、ユエの弱い過去を晒すのが恥ずかしいだけで、これといって隠しだてするようなことでもなかった。
「……ムッカは、私の母の料理を、知っているんです」
ユエがぽつりと零した言葉を拾って、ティハが繰り返す。
「は、は。……母親、ということか」
「はい。私にとって、懐かしいその味を、ムッカは再現できる……それに、私は慰められている。そういう、ことです」
ユエはちりちりと痛む胸を無視して、柔らかく微笑んだ。
*****
――……三年前の、あの日。
葬儀を終えたユエは、喪服を着たまま家でぼうっとしていた。
椅子が三つ揃えられたそのテーブルに座るのは、自分ひとり。
葬儀の手伝いをしてくれた人にお礼を言わなくては、とか。
残ったお金で生活できるのは、精々一年だろう、とか。
妙に現実的なことばかりが頭に浮かんで、でも結局その先を考えるような気力もなくて、ただただ空虚な時間を過ごす。
ふと感じた冷気に身震いして窓の外を見ると、すっかり日が落ちていた。昼間は暖かいが、夜になると空気が冷える。
窓を閉めようと立ち上がると、ぐう、と腹が鳴った。
そういえば、カミラが食べなさいと言って持ってきてくれたシチューがあった気がする。これといって料理をしてこなかった自分にできるのは、野菜をちぎってサラダを作る、それくらいだ。それを気遣ってか、母の友人のカミラは温めるだけで食べられる料理をいくつか用意してくれていた。
これからは料理も勉強しないと…と思いながら、シチューの鍋を温める。
湯気が出てきたシチューの具合を見ようとして、おたまが無いのに気づく。
少し考えればシチューをすくうのにおたまが必要なことくらい分かるのに、そんなことすら思いつかない自分に腹が立つ。あわてて流しまで探しに行って、壁に掛けられたおたまを見つけた。
ふつふつと沸き立ってきたシチューを、おたまですくう。少し息をふきかけて冷まし、口をつけた。
牛乳のまろやかな口当たり。ブイヨンを使った旨味に、玉ねぎの甘味とバターの香り。お腹の中を温かいものが落ちていく感覚が、冷えた身体には嬉しい。
おいしい。もちろん、そう、思った。
でも――……
「……ちがうわ……」
ぐっと手にしたおたまを握り締める。
お母さまの、味が、しない。
どうしてだろう。こんなにもおいしいシチューなのに、何故涙が出るんだろう。
――……もっと。
そう、もっと、商人のお父さまに香辛料のことを聞いておけばよかった。
そうすればきっと、料理上手なお母さまの、味の秘密を知ることができた。
もっと、お母さまの料理の手伝いをしていれば良かった。
そうすれば、一人でだってその味を再現することができた。
もっと、もっと。お父さまと、お母さまと、三人で囲む食卓を目に焼き付けておけば良かった。
そうすれば、目を閉じて、それを想い出すことができた。
今、たった独りで、慣れない味のシチューをすすっていることが、どうしてこんなに寂しいのだろう。
「ふ……っ。あ、ああぁっ、わあああああ……」
堪えきれずに、叫ぶように泣いた。
だれか、だれか。私にお母さまの味を教えて。
死んでしまった人を蘇らせてほしいだなんて、そんな贅沢は言わない。 ただ、ただ。あの愛しい時間を思い出せるだけの、きっかけがほしい。
本当に、それだけでいいの――……
泣きすぎたのか、胸が熱くなって、苦しくなって、思わず床に座り込んだ。
はっ、はっ、と荒い息をつく。そんな時だった。
「ねえ、泣かないで」
見知らぬ子供の声が響く。ユエは思わず息が止まった。
「ムツカの味なら、あたしが教えてあげるから、泣かないで」
ムツカ、は母の名前だ。こんな闇の満ちた夜に、子供の声が死んだ母の名を口にする。その不気味さに震えを感じる身体を鞭打って、ユエはゆっくりと立ち上がる。
部屋の中を見渡すが、人の姿はない。どこかに隠れているのだろうか。固い声で問いただす。
「……誰。……どうして、お母さまの名前を知っているの」
「あたしは、ムツカのおたまよ。名前を知ってるのは当然でしょ」
誰も触れていないのに動き始めたおたまに、ユエは頭の中が真っ白になった。
「おた、ま」
おたまが動いて、しゃべる。そんなことは普通起こりえない。ただ、ひとつだけ可能性がある。もしかして、でも、と動揺を隠せないユエが、鍋に浸かったまま揺れるおたまを恐ろしげに見る。
母は、いつもあのおたまを使っていた。鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている様は、今でも思い出せる。
「……ねえ、ユエ。あなた、祈ったでしょう。味が知りたいって、祈ったでしょう。……だから、あたしは生まれたのよ」
どこか寂しげに聞こえるその声に、ユエはぎゅっと目をつぶった。祈る、生まれる。その言葉が示すものは、ひとつしか無かった。
「……あなたは、霊代なのね」
「そうよ」
ユエの震える声に、おたまが肯定する。
「……そう、そう……なの。ふふ、そうなのね……」
寂しいからといって霊代を生むほどに祈ったのかと、ユエは自分の弱さに可笑しくなって笑いだす。
霊代なんて、お伽話のようなものだと思っていた。剣塚の話は聞いていたけれど、父も母も村外から来ていたユエには馴染みは薄くて。
それでも。受け入れるしかないのだろう。
それに、霊代が命を喰うというならば、二人の元に自分もすぐに行けるかもしれない。そう思ったら、少し気分が落ち着いた。
「とりあえず、何か食べたほうがいいわ。……このシチューも、少し手を加えればムツカのグラタンに近いものが作れると思うから」
そう、気遣うようにおたまに言われて、ユエはのろのろと動き出す。
今日は色々あり過ぎた。頭の芯がにぶくなっていて、ものを考えたくない。
それでも、その後おたまの指示通りに作ったグラタンは確かに母の味になっていて、ユエはまた少し泣いた。
シリアス回。もちょっと続きまふ。
今週もありがとうございました。




