深夜のべんきょうかい
★2/1 内容を少し修正して、17話目に移動しました。
夜も更けた頃。ユエは寝てしまったのか、隣りの部屋からの物音は聞こえない。
寝室に放り込まれた後、ティハは元の姿に戻り床に転がっていた。
ユエの両親の寝室は使う主が居なくなった後も寝具が整えられていたが、いつも地面に寝ているティハにとっては硬い木の床の方が落ち着く。
それに、切り倒され木材になった後も微かに力が残っているのか、ティハは木目の美しい床から心地よい波動を受けとっていた。倒木などからも同じような力を感じたことがあるが、人に加工された後のものからも力を吸収できると知ったときは驚いたものだ。
そんなことを考えていると、コンコンと寝室の扉を何かが叩く音がする。
飛び起きたティハはあわてて人の姿をとった。黒蜥蜴の姿のままでは丸いノブに届かないうえに手先が不器用なので回すこともできない。
服を着るには時間がかかるので、手間を惜しんでティハは薄く扉を開ける。ユエに裸体を見せるなとこっぴどく叱られたのは記憶に新しい。
人の目線の高さで見渡しても何も見当たらず、首を傾げて視線を下げるとそこにはムッカがいた。
「ねえ、ちょっと勉強しない?」
ムッカが寝ているユエを起こさないためか声を潜める。
「勉、強」
「そうよ。ユエの親戚は今まで顔を出したこともなければ連絡を寄越したこともないの。そんな相手が何の理由もなくいきなり現れたら、みんなびっくりしちゃうでしょ。でも、この村は年に何人か勉強のために他所から薬師が来ることがあるから、自分は薬師だって言えばあまり怪しまれないわ」
でもね、とムッカが頭を振って続ける。
「ユエの師匠のババは、とても腕が良いけどかなり厳しい薬師なの。何の知識もなくのこのこ出て行ったら恥をかくのはユエよ。……温かい料理を毎日食べたいなら、あの子のために努力してちょうだい」
あの子のため、というムッカの語調がきつくなり、真剣味を帯びる。
ティハは息を飲んだ。
自分の知るムッカはもっと料理が好きで楽天的な明るい霊代だ。ティハが村に潜り込む件も、無邪気に面白がって提案したものだと思っていた。
少なくない驚きに口を噤んでいると、ムッカが静かな声でささやく。
「……まあ、本当は、ユエが寂しくなければいいと思って、ティハを村に入れたの。あの子、人との間に壁を作ってなかなか交わろうとしないから」
あなたのためじゃない、と懺悔のように苦い声を出したムッカは言った。
「人間に数日溶け込むだけでもかなり面倒な準備が必要だし、きっと好奇心で色々言われる。……やめるなら、今よ」
固い声で最後通牒を突きつけた彼女を、ティハはそっと抱き上げた。
森はティハを暖かな力で満たしてくれるけれど、話をすることもなければ意思を交わすこともない。
そんな森が、ただのトカゲであったはずの自分になぜこんな複雑な思考を、細やかな感情を生み出すものを与えたのか、ティハには長い間分からなかった。
あれをして欲しい、だとかこれを守って欲しい、だとか言われていれば、それに没頭できたのだろうが、そんなものを感じた覚えすらない。たった独り森でうずくまっていると、自分が他の仲間と同じように寿命で死ねない理由を考えてしまって発狂しそうだった。
そんな時間を気の遠くなるほど過ごした後で、ティハはユエとムッカに出会った。
料理は、きっかけに過ぎない。本当は、自分の本当の気持ちは。
……ふたりに会えて嬉しかった。
ユエは異様なしゃべるトカゲを受け入れ、自分の存在を「霊代」という枠組みに入るものだと教えてくれた。そのユエが祈って生み出した、ムッカとも親しくなれた。
自分と同じ「霊代」だというその存在を、近くで見るのは初めてだった。覚えている人生のうちでも数えるほどしか似た存在を見たことがなかったから、本当に自分と同じなのかと信じられない気持ちになった。
そんな有様だったから、自分の力を与えることで回復したムッカを見たときの喜びなど、他に例えようもない。
――ああ、彼女は、自分と同じ力で生きている、自分と同じ存在だ。
そう嬉しさが込み上げて、それでもなお、しばらく経ったらやっぱり眠ってしまうんじゃないかと不安を覚えてユエの家まで付いていった。
時間が経ってもムッカが元気なままで、同じ存在に違いないと改めて感じたとき、ティハはムッカを生み出し自分を受け入れてくれたユエに感謝した。
そんな彼女たちと食べる料理は特別なもので、ティハは毎日でも一緒に話していたかった。もちろん温かい料理は大好きだが、独りで食べればきっとつまらないだろう。
だから。
ティハはムッカに懇願した。
「面倒でも、ここにいたい。ユエの迷惑に、ならないようにする。だから、教えてくれないか」
一緒にいるための、知識を。
*****
床に敷かれたラグの上に薬草の見本帳が置かれ、ティハは黒蜥蜴の姿のままその前に陣取っている。
明かりは窓から差し込む月明かりだけで、ティハが蜥蜴の脚でめくると紙がぐしゃぐしゃになってしまうので紙送りはムッカが担当していた。
「めくって、く……ください」
「はい。……これは咳止めに効く薬草で名前は……」
ムッカが読み上げる声と見本帳の文字を照らし合わせながら、ティハは言葉を覚えていく。さらに同時進行で、バルバと話すときのための練習を兼ねてムッカとの会話はすべて敬語で行っていた。
これだけ頭を使うとさすがのティハも人間の姿を維持できないので、今は黒蜥蜴の形を取っている。
人間は年上や役職が上の者に対して使う言葉が違うから、とはムッカの言だ。
幸いにも、ユエが普段ティハに対して使う話し方が敬語だったので、用法は何となく分かっていた。だが、実際に使うとなるとやはりぎこちなくなってしまう。
そういえば、何故ユエは自分に対して敬語を使うのだろうか。
確かにティハは長く生きているけれど、人間ではないので話し方を気にしたりしない。
「……ムッカ。ユエは、なぜ、じぶんにけいごを、つかう……のでしょうか」
ムッカは読み上げていたのを中断して、少し考えるように黙り込んだ。
「そうね……最初にティハを森の主、と思ったのも関係していると思うけど……人は、尊敬している相手にも敬語を使うのよ。ユエがティハのことをどう思っているかは知らないけれど、少なくとも敬意を表したい相手ではあるんだと思うわ」
敬意、と言われてティハは目を瞬く。
料理に関してもそうだが、自分はユエに手を掛けさせているだけで尊敬されるようなことはしていないと思う。
しきりに首を傾げるティハに、あくまでユエを起こさないようにひっそりとムッカは笑う。
「……霊代ってね。人間たちにあまり良く思われていないの。だから、ユエみたいに霊代を得た人たちはそれを隠すことが多くて、同じ立場の人に話を聞く機会がそもそもないわ。だから、ユエにとって、ティハは、あたし以外に初めて接する霊代なの。とても、貴重な存在なのよ」
貴重な存在。
それを聞いて、ティハはふたりに対する自分の想いと似ていると思った。でも、霊代が良く思われていないとは、どういうことなのだろう。
「なぜ、たましろは、わるい?」
ムッカがおたまの頭をうつむかせる。その姿は、寂しさに溢れていた。
「人間と契った霊代は、その命を喰うことで存在を保つ。そう、言われているからよ。……それに、実際、あたしはそれを否定できない。あたしはきっと、あの子の命を、使ってるわ」
ムッカの声は泣いているかのように揺れている。ティハは力のことを思った。
それはきっと森の命で出来ているのだと、何となくティハは知っていた。ムッカがティハと同じ霊代だというなら、彼女もユエとの間にそれを感じていただろう。
ティハが力を使う度にどこかで森の命が消えていくが、彼らはユエのように笑いもしなければ、話しもしない。ただ、自然の一部としてくるくる回る生命の輪の中に埋没する。そして、そのことを嘆くことはきっとない。
「ユエという存在は、あの子だけよ。あの子が死ねば、二度と同じ存在は生まれない。それなのに、あたしはユエから力を少しずつ吸い取ってる」
苦しみを吐き出すかのように、ムッカは声を絞り出す。そしてはあ、と深いため息を吐くと、ぽつりとこぼした。
「あなたが羨ましい。あたしは、人の姿になれない。ユエを慰めるために生まれたはずなのに、あの子が辛いときに抱きしめてあげられないし、涙を拭いてあげることもできないの。でもきっと、人の姿になるほど力を使えば、ユエは逝ってしまうんでしょうね」
ティハは声をかけられないまま、沈黙していた。
ティハは力を使うことに恐怖は感じないけれど、ずっと独りだった。
ムッカはユエと出会えたけれど、自分がいつか彼女を殺すと怯えている。
自分に、何ができるのか。自分は、どう言ってやるべきなのか。そんなことを考えているうちに、立ち直った振りをしたムッカが明るい声を出した。
「こんなこと、同じ霊代じゃなきゃ言えないわ。話したらちょっと楽になった気がする。さ、時間も少ないし、勉強を再開しましょ」
ふたりともまだ命のことを考えているに違いなかったが、それを振り払うかのようにそろって見本帳に視線を落とした。
夜はさらに更けていった。
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