フェーンの受難
翌朝。東の空がほんのり白み始めた頃。
フェーンは誰かが廊下を歩くわずかな震動で目を覚ました。扉をそっと開けて廊下の様子を窺ったが、既に人影はなかった。フェーンの部屋の前を通り過ぎて一階に下りたらしい。
「そうか。一階に……。一階!?」
階段から一階を見下ろすと、誰かが宿を出て行くのが見えた。部屋に戻って窓から外を窺うと、誰かが馬車に乗り込むところだった。
まだ頭が回っていない。
……。
「あ、尾行対象がもう出立してしまう……のか」
――こうしてはいられない!
「姫様! アディ! 起きてください。姫様! アディ! ……おい、起きろ!」
二人の部屋の扉をたたいて呼びかけたが、返事がない。こんなことをしている間にも、馬車は走り出してしまうかもしれない。
「ああ、もう! あああああああ……ご免!」
意を決して、扉に手を掛ける。鍵が掛かっていたらそれまでだが……開いている!
開いた!
良かったのか、良くないのか、よく分からない。
フェーンは、手討ち覚悟で部屋に飛び込んだ。
手前にアディがいた。
夜具が乱れていて、フェーンの視界に彼女のふくらはぎが飛び込んできた。
「!!!!!!!!」
そちらを見ないように、剣の鞘でアディをつつく。
「ん……」
「アディ、起きろ。頼むから起きてくれ!」
「ん……何……フェーン? ……フェーン!?」
「起きろアディ。姫様を起こしてくれ。フェルカーデが!」
「あなた! 姫様がお休みになっている部屋に入り込むとはどういう了見ですか! このことはデルバーエル卿にご報告して……」
「報告してもいいから、とにかく起きてくれ。それから、足をしまってくれ!」
そこでようやく、アディはふくらはぎが丸見えになっていることに気付いた。
「フェーン、見たのですか? 見ましたね? 見てしまいましたね?」
「後でいくらでも聞くから、とにかく身支度してくれ。フェルカーデが行ってしまう!」
「フェルカーデが!? なぜそれを早く言わないのです。私の足に見とれて……」
「分かった、悪かった。とにかく、姫様をよろしく! ああ面倒くさい!」
フェーンは急いで荷物をまとめると、宿の男に金貨を投げ付けて外に飛び出した。払い過ぎだが、のんびり精算している場合ではない
馬車は既に見えなくなっていた。
厩に走って、三人の馬を宿の玄関に連れてくる。リリーメルとアディが宿から出てきたところだった。
リリーメルの髪の毛が盛大に乱れて、広がっている。フェーンは笑いを無理に抑えようとして「ごふっ」と漏らした。
「フェーン、私たちの寝室に侵入したというのは本当ですか。あなた、見てはならないものを見たのではないでしょうね」
「何も見ておりません」
「姫様、この男は私の足を見たのです」
「まあフェーン、あなた紳士としての慎みはないのですか。女性の寝室に入り込んで足を眺めるなど……」
「眺めてなどおりません。そもそも姫様が『慎み』という単語をご存じだったことに衝撃を受けております」
「それはどういう意味なの、フェーン。とても失礼なことを言われた気分です」
「夜更かしして寝坊した二人に文句を言われる筋合いはありません」
「それとアディの足を眺めていたことは別問題です」
「だから眺めていないと言っているでしょう」
「いやらしい」
「い、いやらしい!? アディ、その言葉を取り消してくれ」
宿の玄関先で繰りひろげられる三人の喧嘩に終わりは見えない。
「うるさいぞガキども!」
三階から投げ付けられた杯が、フェーンの頭に当たって「くわぁーん」と鳴った。
三人は、ようやく正気に戻った。




