川辺の恋
伯爵ご一家は、キルエルト伯領への帰路に就いた。
姫様は、たちまち顔色不良を催してぐったりしている。
「もうすぐ次の宿場町に着きます。宿場町の脇に川が流れているそうですから、冷たい水でお顔を拭いましょう」
「結局、婚礼の出席者に目ぼしい男はいませんでした。最大の機会だったのに」
「嫁入り前なのですから、もっとご自重を」
「そのことだけど、私あまり覚えていないの」
「覚えていない!?」
「何とか副伯に勧められてお酒を飲んで……何だか舞い上がってしまって。本当に、別室に行こうなんて言ってた?」
「おっしゃていました。もうすっかり『ヤル気』になって」
「いくら私でも、そこまではしたなくはないつもりなんだけど」
唇を尖らせている姫様を見ていると、確かにあの夜の姫様は変だったような気がする。平素もうっすら変だし、色男を前にするとさらにおかしくなるけれど、貞操をほいほい投げだそうとしたことなどない。
フェーンに文を渡すときとは別の方向に暴走していたのだろうか。目を離すと何をしでかすか分からない。
馬車が止まった。宿場町に着いたようだ。
「ああ、さっぱりしたい! さあ、川に急ぎましょう」
姫様は、馬車から降りると水音がする方角に走り去ってしまった。いや、走っているけど「去る」ほどではない。
遅い。
「ああ、もう。デルバーエル卿! 付いてきてください。姫様の護衛をお願いします!」
私はフェーンを呼びながら、姫様の後を追った。突き当たりの角を曲がったのか、姿が見えなくなっていた。少し焦る。
走るのは遅いのに、無駄に行動力がある姫なのである。
◆
ああ、気持ち悪い。早く冷たい水で顔を洗いたい!
私は走った。ツバメのように。放たれた矢のように。一陣の風のように。
水音が近づいてきた。あの角を曲がった先が川に違いない。
曲がった。
曲がったと思ったら、数歩先に二つの黒い影が見えた。
見えたけど、ツバメは急に止まれない。
「どいて!」
叫びながら影の間に突っ込んだ。
ちょっとぶつかったけれど、うまく擦り抜けた。
急に飛び出して、ぶつかったのはこちらの落ち度だ。淑女のたしなみとして、謝罪しなければ。
ちょっとだけだったので、ちょっとだけ謝ればいいだろう。
勢いを殺し切れず、さらに数歩進んでしまった。
おっと、目の前はもう川だ。危ない危ない。
振り向いて謝罪しようとした瞬間、頭に何かがゴツンと落ちてきた。
痛い! 痛い痛い痛い!
木でできた筒のようなものが足元に転がった。
「ちょっと」ぶつかった拍子に彼らが手にしていた筒が跳ね飛ばされ、落下してきたのだ。
痛い!
何この筒。
筒を拾い上げて、改めて彼らに目を向けた。
その瞬間、雷に打たれたような感覚が私の全身を駆け抜けた。まあ、雷に打たれたことはないのだけれど。
胸のときめきが止まらない! 心臓が肋骨をバキリと突き破って飛び出して、コロコロ転がってしまうのではないかと心配になった。
顔が熱い。川の水を沸騰させてしまうかもしれない。
右側の、太ったハゲちゃびんはどうでもいい。左側の、細面の男性は何て素敵なの。目元に少し険があって、何やら陰があるところがまた良いではないの。危険なニオイがする男……。
「失礼、お嬢さん。お怪我は?」
「ええ、大丈夫です。少しのぼせそうなだけ」
「のぼせる? とにかく、拾っていただいて助かりました」
左側の素敵な男性が、そう言って右手を伸ばしてきた。低い声も素敵……。
素敵な彼が、さらにぐっと焦りをにじませた顔を近づけてきた。
あら、何をそんなに焦っていらっしゃるの? 私はもうあなたのものなのに。
私は彼に近づいた。宙を浮いているような気分だ。浮いたことはないけれど。
これが、恋?
素敵な彼が、ふっとほほ笑んだ。ああ、苦み走った笑顔……。
スンとなった。虚無になった。
彼の前歯に、何か……野菜?が挟まってる。
「ナイわー。歯に野菜ッて……ナイわー」
私は思わず後ずさりした。歯に野菜を挟んだ男は、さらに近づいてくる。
「キモッ!」
私は後ろに飛びしさった。
飛びしさったら……地面がなかった。
宙を浮いているような気分だ。というか浮いていた。
ああ、これが宙に浮いているということなのね。
「えっ!?」
っと思う間もなく、私は川の中に頭から落ちていた。
とうわけで、今回から冒険編の始まりです。
以後、原則として毎日17時20分に新エピソードを公開する予定です。
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