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09話 譲歩

シンはすぐには答えなかった。

冷酷な言葉の余韻が耳の奥で反響し、麗華は悔しさに拳をぎゅっと握りしめた。


「――三葉さん、君がそう思うのも無理はない」


「……はっ?」


突然の言葉に、先ほどまでの怒気はどこかへ吹き飛び、麗華は間抜けにまばたきをした。


「そもそも、俺には人間の感情というものが理解できなかった」


あまりにも文脈を無視した告白に、思考のバランスが大きく崩される。

(いったい、何を言い出すのこの人は……?)


「物心ついた頃、育ての親はこう言っていた。俺が一度も泣いたことがないと」

抑揚のないモノトーンの声が、夕闇の迫る丘に落ちる。

「普通の子供なら駄々をこねて泣き叫ぶものらしいが、俺にはそれが一度もなかったそうだ」


冷たい野風が吹き抜け、開けた丘の乾燥した麦の穂がカサカサと乾いた音を立てて擦れ合った。


「成長するにつれて、周囲にはあふれるほどの感情があることを知った」

シンは淡々と続ける。

「おもちゃを壊して泣く子供、赤ん坊に優しく微笑む母親、飼い主に尻尾を振る犬。……そのすべてを、どうにかして感じようとした」


立ち止まったままの瞳に夕日の残照が映り込むが、その双眸が温まることは微塵もない。


「普通の人間に近づき、他人の気持ちを理解しようと足掻いた。だが、どれだけ試しても何かが欠けていた。俺の内側には、感情というものが初めから存在しなかったんだ」


立ち尽くしたまま、麗華の腕にピリッと小さな鳥肌が立つ。

告白の内容こそ真摯に響くはずなのに、少年の声に一切の揺らぎがないせいで、まるでどこかの台本を棒読みしているかのような不気味な空虚さを漂わせていた。

(子供だって見抜けるわよ……そんなの、中身がからっぽの言葉だなんて……)


「やがて、学校ではアニメという文化が広く支持されていると知った」

空の色が一層濃くなる中、シンは姿勢を変えずに言葉を紡ぐ。

「興味が湧いた。たかが絵の動く映像が、なぜこれほどまでに人間を夢中にさせ、心を動かすのかを確かめたくて」


相変わらずの無表情のまま、シンは麗華を見つめ返した。


「――ある人に、『ワン〇ース』という作品を勧められた。史上最も人気のあるアニメの一つだと聞いて見始めたんだが……驚いたよ。登場人物たちがまるで本当に生きているかのように見えたからな」


「笑い、泣き、激昂する。その言葉の紡ぎ方や感情の表し方が……あまりにも本物らしく感じられた」


「それから他の作品もいくつか見てみた。様々なキャラクターがどうやって感情を表現するのかを知るためにね」


冷え込む夜風にかき消されそうな平板な声で、シンは淡々と語る。


「『ワン〇ンマン』というアニメの主人公にも、似たような悩みを抱えるキャラクターがいた。だが、あいつは俺とは違って、いざという時にはちゃんと心が揺れ動いていたがな」


残り火の匂いが夜の湿った冷気に溶けていく中、麗華は息を殺してその言葉に耳を傾けていた。


(――もしかして、本当にこの人の言ってることって本気なの……?)


嘘の欠片でもないかとシンの瞳の奥を覗き込むが、少年の表情はどこまでも平坦なまま微動だにしない。

とはいえ、出会ってからの短い時間を振り返ってみても、シンが嘘や隠し立てをするような人間にはとても思えなかった。


麗華はギュッと目を閉じ、鼻の付け根を強く摘まんで長いため息を吐き出す。


(ぐっ……あんな長々とした身の上話を聞かされたら、もう信じるしかないじゃない……っ!)


片目だけをそっと開き、相変わらず冷静なその横顔を盗み見る。

ここでちゃんとけじめをつけておかないと、と自らに言い聞かせた。


「――シン君!」


冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込み、気を取り直すように息を整える。


「――っほん! まずはさ……」


足元に広がる黒い泥土を見据えながら、麗華は腰を折り、深々と頭を下げた。


「さっきの失礼な態度……謝るわ。それだけじゃない、その……過去にあたしがやっちゃった色々なことについても……!」


(……これで、伝わってるよね? あの、屋上のこととかも含めてさ……!)


恐る恐る顔を上げ、じっと見つめてくるシンの瞳を受け止めると、麗華の首筋からカッと熱が昇っていく。


「何度も命を救ってもらったっていうのに、自分のこれまでの態度を思い出すと恥ずかしくて顔が上げられないよ……本当に、ごめんね」


シンはまばたき一つせず、夕闇に沈みゆく木々のように微動だにせず言い放った。


「気にしていない」


ぱっと麗華の表情が明るくなり、胸のつかえがスルスルとほどけていくような安堵感が全身を駆け抜けた。


「それじゃあ二つ目……その、あなたの持ってる力について。ちゃんと、あなた自身の口から本当のことを教えて」


シンは虚ろな灰色の瞳を微動だにさせない。


「ああ、持っている」


麗華は小さく息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。


「そ、そう。そして最後は――」


すっと背筋を伸ばし、木々の長い影が二人を飲み込むまで一歩踏み出す。


「あなたの物事の捉え方は、根本的にねじ曲がりすぎてるわよ! 感情表現ができないどころか、人の気持ちすら理解できない人間がいるなんて信じられないんだから……!」


信じられないと言わんばかりに首を横に振り、瞬きもしない少年の瞳を真正面から睨みつける。


「道理で、あたしを見る目に同情の色がカケラもないわけだわ。他人に無関心なその理由も、今なら妙に納得できちゃうしね」


一歩後ろに下がり、ブーツの靴底が地面の土をサクッと踏みしめる。

顎に人差し指をあて、小首をかしげながら麗華は提案を紡いだ。


「うーん……そうだ! 口だけで謝るだけじゃ全然足りないし、その……あなたの『感情が分からない問題』、あたしが手伝ってあげようか?」


「恩返しを兼ねた、長期の謝罪キャンペーンってところかな」


シンはこてんと首を傾げた。


「……何の話だ?」


ぬけぬけとした返事に、麗華はピクッと眉をひそめる。


「だから、さっき自分で言ってたでしょ! 感情が欠落してるどうこうっていう問題よ!」


冷たい夜風がシャツを揺らす中、少しの間を置いてから、少年は小さく頷いた。


「……それなら、妥当だな」


「でしょ? そうでなくっちゃ!」


両腕を組み、腰に片手をあてがって麗華は得意げに胸を張る。


「君の感情探し、このあたしが全面的にサポートしてあげる! 道に迷いそうになったり、何か引っかかることがあったら、いつでも相談に乗ってあげるからさ。そうすれば、心の奥底に眠ってる本当の気持ちだっていつかは目覚めるかもしれないしね!」


堂々としたポーズを数秒ほどじっと見つめてから、シンは静かに一度だけ頷いた。


「……わかった」


「よし、これで決定ね!」


麗華はパッと表情を輝かせ、肩の力をふっと抜いた。


(……って、思ってたよりすんなり決まっちゃったな)


スカートについた煤汚れを軽く払いながら、ふとそんなことを考える。

暗くなり始めた木々の間から、虫の音が控えめに鳴り響き始めたその時、脳裏の片隅でふと見覚えのある記憶の断片が引っかかった。

麗華は思わずその場に足を止める。


「失礼な言い方になったらごめんね」


こめかみに人差し指をあて、記憶をたぐり寄せながら言葉を続ける。


「こういう話、どこかで聞き覚えがあるんだよね。何年か前に行った健康セミナーだっけ? ちょっと記憶があいまいなんだけどさ……」


平坦な調子で、シンはさらりと告げた。


「お医者さんからは、シゾイドパーソナリティ障害に似たようなものだって言われたよ」


麗華は丸くなった目をさらに見開いた。


「えっ? じゃあ、その……重症度はどれくらいなの……?」


「結構、重度だってさ」


ばしっ、と自分の額に平手打ちを食らわせ、麗華は長いめまいのようなうめき声を漏らす。


(――それじゃあ、この計画は最初から詰んでるじゃない! 確か、そういう重症のケースって改善させるのってほとんど無理ゲーだったはずじゃ……っ!)


自分の失策に冷や汗を流しながら、麗華はひきつった笑みを浮かべて頬をポリポリと掻いた。


「ま、まあ、奇跡が起きるかもしれないし? 人間、何があるか分からないって言うしさ、あはは……」


少女が自分の選択ミスに頭を抱えるのをよそに、シンは遠くの木立へと視線を走らせた。

森の向こうに夕日の最後の名残が完全に消え去り、冷たい夜風が木々を揺らしていく。


「もうすっかり暗くなったな」


シンは静かにそう呟いた。


「そろそろ戻ろう」


見上げた夜空には濃い藍色が広がり、残された煙の薄い雲の切れ間から、微かな星々がまばたいていた。


「……そうだね」


横に視線を走らせるが、隣に広がるはずの草むらはぽっかりと空いていた。

慌てて振り返ると、シンはすでに数歩先を歩いていた。

黒っぽい衣服が夜の影に溶け込み、そのまま村へと背中を向けて進んでいく。


「ちょっと……待ってよ!」


声をかけると、シンはわずかに歩調を緩めた。

スニーカーで焼けた草を踏みしめながら、焦げた作物の苦い匂いが立ち込める夜気の中を、麗華は小走りで追いかける。


「それにしてもさ」


疲労感を押し隠し、好奇心が我慢できずに口をついて出る。


「あの竜に対して何をしたのか、どうしても気になってたんだけどさ。いったい、どんな裏技を使ったわけ?」


「太陽を使って処理した」


前方の薄暗い泥道を見据えたまま、平板な声で返事が返ってくる。

パチクリとまばたきを繰り返し、あまりの斜め上の回答に麗華は絶句した。


「は……何だって……?」


引きつった笑みを浮かべ、すっとぼけるように声を裏返させる。


「太陽を使って、あんな巨大な竜を焼き殺したって? ははは……」


「正確にな」


(……えぇっ!? まさか、あの時のノリで言った例え話がガチで正解だったわけ……!?)






ステータス

 名前:真 ソル

 種族:人間

 称号:なし

 能力:『???』




ステータス

 名前:三葉 麗華

 種族:人間

 称号:なし

 能力:なし

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