02話 死の淵に立つ
空中で身を引くワイバーンを、麗華は恐怖に縛られたまま見つめることしかできなかった。
巨大な翼が一際大きく羽ばたき、再び激しい暴風が樹々を薙ぎ払いながら胸を強く押しつけてくる。
「っ……!?」
ワイバーンが巨大な口をぐわっと開けた。
喉の奥で赤と黄色の炎が渦を巻き、バチバチと不気味な音を立てて爆ぜる。
顔を直撃する、焼けるような熱風。
「あ――」
悲鳴を上げる猶予すら与えられず、怪物は猛烈な炎の濁流を吐き出した。
二人の視界全体が純白の光と灼熱の焔で埋め尽くされる。
ゴォオオオッ!
麗華は強く目を閉じ、肌を焼き溶かすような激痛を覚悟した。
――けれど。
いつまで経っても熱さはやってこない。
どころか、ぬるい風ひとつ感じなかった。
(え……?)
恐る恐る、片目を開ける。
そこに広がっていたのは、到底あり得ない光景だった。
吹き荒れる炎の壁が、まるで水のように麗華の肌を滑り落ちていく。
肌には火傷ひとつなく、制服の糸くずすら焦げていない。
隣に立つシンも、完全に無傷だった。
「な, なに……これ……どうなってんの……!?」
麗華はシンの顔へ勢いよく視線を向け、怯えの兆候を探す。
だが、シンは声ひとつ漏らさず、身じろぎひとつ見せない。濁った灰色の瞳で、ただじっと頭上の怪獣を見上げるばかりだ。
その時、ふとシンの肩越しに視線が滑り――麗華の胃の奥がヒュッと縮みあがった。
二人の背後で、樹々が鮮やかな朱色の炎に包まれ、バチバチと音を立てて爆ぜていた。
狙われたはずの自分たちは無傷で、燃えているのは遠くの木々だけ。
遅れて押し寄せてきた本物の熱気と、焦げた松と燻る煙の匂いが、麗華の喉をツンと刺した。
(一体、何がどうなって……?)
思考を断ち切るように突風が吹き荒れ、山火事がゴーッと巨大な炎の壁となって燃え広がる。
上空ではワイバーンが巨大な翼を揺らし、その口元から濃い黒煙をポタポタと撒き散らしていた。
「ま、また来るの……!?」
怪物は再び巨大な顎を開く。
喉の奥で渦巻く炎の中心に、青白い光がパチパチと不気味に弾けた。
ズーンと重苦しい気圧の変化に、麗華の耳の奥がパチンと鳴る。
避ける隙すら与えず、白熱した青い火炎放射が直下へと撃ち放たれた。
「くっ……!」
ごうごうと唸りを上げる熱線が直撃し、あふれ出す光の海に呑み込まれる。
けれど、猛火が全身を洗おうとも、微かな熱気すら伝わってこない。
炎の渦の真ん中で、二人は傷ひとつなくただ突っ立っていた。
眩い閃光が収まると同時に、麗華から荒い吐息が漏れる。
「ふはっ……!」
追撃を警戒して身体をギクッと強張らせ、麗華は勢いよく上空を仰ぎ見る。
――あまりの光景に、言葉を失った。
あろうことか、自分自身の解き放った炎の逆流に飲み込まれ、身もだえしながら炎上していたのはワイバーンの方だったのだから。
『クラーーーッ!?』
内側から焼き尽くされる苦悶に、怪物が悲鳴を上げた。
灰色の皮膚がド黒い不気味な赤へと変色し、熱で鱗がパチパチとはじけ裂ける。
火を消そうと、鋭い爪で必死に己の翼を掻きむしりながら、空中でもだえ苦しんでいた。
『ギャオオオオオオオッ!!』
甲高い断末魔が、燃えさかる樹々に木霊する。
翼が黒い灰となって崩れ去り、巨獣は空中にとどまる術を失った。
グラグラと大きく揺らぐと、そのまま上空から墜落し――ズドォンッ!と地響きを立てて地面へ叩きつけられた。
猛烈な衝撃が大地を揺らし、麗華はあやうく足元をすくわれそうになる。
ガクガクと膝を折らせながらたたらを踏む頭上に、火の粉と分厚い砂塵がパラパラと降り注いだ。
(し……死んだの……?)
ゆらゆらと煙の立ち上る窪みへ、おそるおそる足を踏み出す。
ワイバーンの巨躯がぴくっと弱々しく跳ね――やがて、完全に沈黙した。
「うそ、でしょ……」
死体から吹き散る熱風の壁に腕をかざし、麗華はへたり込むように後ずさる。
焼けた鱗と煮えた肉の生臭い臭いが鼻をつき、強烈な吐き気が込み上げてきた。
重苦しい静寂が、再び広場を包み込む。
周囲には焼け焦げた樹々、潰れた狼たちの死骸、そして湯気を立てる竜の山。
(もう……何がなんだか分からないよ……!)
ドクンドクンと耳元で心臓の音がうるさく鳴り、麗華は勢いよく首を振って振り返る。
シンは、麗華が離れた時と同じ場所にたたずんでいた。
制服には煤ひとつついていない。
煙を上げる肉の塊を、まるで退屈な教科書でも眺めるように見つめている。
(でしょうね。目の前で巨大な竜が黒こげになっても、彼が動じるわけがないか……)
パチリと一度瞬きをし、シンは焦げた土を見下ろした。
視線の先にあるのは、煙を上げる幹の根元に転がった一本の細く乾いた小枝。
麗華は顔をしかめ、怪訝そうに尋ねる。
「ねぇ、何して――」
「あった」
ぽつりと呟き、かがみ込んだシンは、温かい煤を指先で払って小枝を拾い上げた。
立ち上がると、地面の上に小枝を一本の指で垂直に立てる。
指を離した瞬間、パタリと軽い音を立てて木片が倒れた。
折れた先端が指し示したのは、右側。
ポンポンと手のひらを払い、シンは言った。
「行こう、三葉さん」
返事を待つこともなく踵を返し、煙の上がる根元をひらりと飛び越えて、迷いなく森の奥へと歩き出してしまう。
(え……? うそでしょ……いま、枝が倒れた方角で進む道決めたの……!?)
麗華は目の前の光景に呆然としながら、最後に一度だけ後ろを振り返った。
薄煙の漂う窪みには不気味な静寂が広がり、ゾゾッと背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
影に潜む新たな怪物の気配に怯え、大慌てでその背中を追いかけた。
ほんの数分で鬱蒼とした枝葉が陽の光を遮り、周囲は薄緑の闇に包まれていく。
火災の熱気は嘘のように消え去り、息を吸うたびに肌へへばりつく湿っぽい冷気が満ちていた。
茂みの奥から、カチカチと奇妙な虫の不気味な音が忍び寄る。
けれど、シンは何の躊躇もなく、肩の力を抜いた確かな足取りで歩みを進めていた。
その背中を逃さまいと、麗華はすぐ後ろを追いかける。
規則正しいシンの足音に合わせ、必死に跳ね上がる鼓動を宥めようとしていた。
「……」
巨大な怪物、無傷の自分たち、あり得ない青い炎……どれも理屈が通らない。
いや、本当は考えたくもない『ある一つの答え』を示していた。
(これって……いわゆる『異世界』ってやつ……?)
周囲の樹々を見渡す。
粗い樹皮、湿った草、黒い土――見た目こそ普通の森だが、さっきの巨大モンスターと荒れ狂う炎が常識を完全に破壊していた。
ウェブ小説の異世界転移なんて、ガチ勢のオタクが読むファンタジーだと思っていたのに。
自分がその当事者になるなんて、夢にも思わなかった。
(ファンタジー世界に巻き込まれるって分かってたら、スルーしないでラノベ読んでおけばよかった……!)
チッと小気味よく舌打ちを漏らす。
(なんで自分、恋愛漫画と学園ものしか読んでなかったのよ……!?)
知識なんて何ひとつない。
前を行くシンは、足音ひとつ立てずに歩き続けている。
ボサボサの後頭部に、そっと視線を向けた。
(あの異常な落ち着きよう……さては男子によくある、あの手のラノベを読み漁ってる口ね)
だからこんな異常事態にも動じないんだ、と麗華は勝手に納得する。
キィエエエエッ!と遠くの樹々を揺らして鋭い悲鳴が響き渡り、麗華の首筋にゾクッと冷たい寒気が走った。
ビクッと肩を跳ね上げる麗華を余所に、シンは速度を緩めもしない。まるで街の公園を散歩でもしているかのような軽やかさだ。
(……ううん、単に現実感がなさすぎる変人なだけかも)
状況の異常さが改めて身にしみると、ドッと強烈な疲労感が全身を襲った。
ほんの一時間前まで、自分の将来のために机に向かって猛勉強していたはずなのに……!
はぁぁぁ……と、長くて重い溜め息がこぼれた。
(……なんで自分がこんな危険なファンタジー世界で、超絶マイペースなクラスメイトと遭難してんのよ……っ!)
ステータス
名前:真ソル
種族:人間
称号:なし
能力:『???』
ステータス
名前:三葉麗華
種族:人間
称号:なし
能力:なし




