第六話 近づく気配
あれから一週間、ハッサンにみっちりと薬草について教えてもらった。
この村の周辺は滅多に人が来ないため、質の良い薬草が手付かずで生えているらしい。
行商人がわざわざ立ち寄るのも、その補充が目的だそうだ。
傷薬、火傷薬、かぶれに効く薬……。
さらには、冒険者に高く売れる薬の材料になるという『ポポの葉』なるものまで教えてもらった。
「ハッサン、これ何に効くの?」
と聞いても、
「さあな、高く売れるってことしか知らねぇ」
と返される。
(……買い叩かれたりしないのかしら。お人好しもここまでくると、ちょっと心配だわ)
そんなお人好し親子に一週間もタダで置いてもらうわけにはいかない。
私は買い取ってもらった薬草代の中から、授業料と家賃、そして食費として、ハッサンの手に無理やりコインを握らせている。
「そんなもん、いらねぇって言ってるだろ」
と不機嫌そうに突き返そうとする彼に、
「私の気が済まないの! 貰っといて!」
と押し問答の末に受け取らせるのが、ここ数日の日課だ。
最初は全部ただの雑草に見えた薬草も、今ではある程度見分けがつく。
「……これは、傷薬のやつね」
葉の形を確認し、匂いを嗅ぐ。
よし、合格。
傷まないように丁寧に籠へ入れる。
「……こっちはダメ。縁のギザギザが甘いわ」
不思議なものだ。
慣れてくると、あんなに分からなかった違いが、スーパーのタイムセールの野菜を選ぶときのようにハッキリと見えてくる。
「人間、やればできるもんね」
ぽつりと呟くと、足元でクロが少しだけこちらを見上げた。
「何よ、感心してるの?」
軽く睨んでやると、黒豹は何も言わず、また地面に鼻を近づけた。
相変わらずマイペースなやつ。
「……でも、助かってるわよ。ありがとね」
小さく付け足すと、クロの耳がぴくりと動いた。
今日は、初めての一人だ。
ハッサンが
「もう大丈夫だろ」
と太鼓判を押して、自分の仕事へ戻っていったのだ。
最初は心細かったけれど――。
「……まあ、なんとかなるでしょ。クロもいるし」
実際、ここまでは順調。採れる量も増えたし、見分けの精度も上がっている。
これなら、ちゃんと稼いで旅立てる。
そう確信しかけた、その時だった。
「……?」
ふと、妙な違和感に襲われた。
音が、消えた。
さっきまで聞こえていた鳥のさえずりも、風に揺れる葉のざわめきも。
まるでスイッチを切ったかのように、ふっと途絶えた。
「……なに?」
周囲を見渡すが、景色に変わりはない。
木も、草も、そこにある。
けれど、嫌な静けさが耳の奥にじんわりと張り付く。
ガサリ、と。
すぐ近くの茂みが大きく揺れた。
「……っ!」
反射的に身構える。心臓が早鐘を打つ。
「……クロ」
小さく名を呼ぶ。
クロは、すでに動いていた。
低く姿勢を落とし、一点を鋭く見据えている。
その瞳は、今まで見たことのない色を宿していた。
――狩る者の目だ。
「……やばい、やつなの?」
喉がカラカラに乾く。
一歩、後ずさる。
逃げるべきだと頭では分かっているのに、足がすくんで動かない。
ガサリ。
もう一度音がして、そいつが姿を現した。
「……っ」
思わず息を呑む。
犬を巨大化させたような姿。
毛は、薄汚れているが、緑がかった白。
唸る口からは涎が垂れ、赤い目からは本能的な殺意が漂っていた。
危ない。
そう確信した瞬間、魔獣がこちらを“認識”した。
低い、地を這うような唸り声。
逃げなきゃ。
焦りで足がもつれる。その一瞬の隙を、魔獣は見逃さなかった。
地面を蹴り、あり得ない速度で飛びかかってくる。
「――っ!!」
反射的に腕で顔を庇った。
終わった。
あんなのに噛まれたら一まりもない。
絶望が視界を覆った瞬間。
漆黒の影が、猛然と横から割り込んだ。
鈍い衝撃音。
地面が大きく揺れる。
恐る恐る目を開けると、そこには
――クロがいた。
魔獣を地面に押さえつけ、完膚なきまでに組み伏せている。
クロのほうが大きいとはいえ、お見事としか言いようがない。
「クロ……!」
叫ぶ私の声など聞こえていないかのように、黒豹は静かに牙を立てた。
ぐしゃり、という生々しい音。
魔獣の体が一度だけ大きく跳ね、やがて動かなくなった。
「……あ……」
一気に血の匂いが広がる。
クロがゆっくりと死体から離れるのを見て、私は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「無理……。無理よ、こんなの……」
勝てるわけがない。
武器も魔法も、戦う覚悟すら持っていない今の私には。
クロがいなければ、私は今、あの赤い肉の塊になっていた。
「……死んでた。私、本当に死んでた」
現実が、鋭い刃物のように心に突き刺さる。
しばらく、その場から動けなかった。
「……帰るわよ、クロ」
震える声で告げる。
立ち上がる足は、まだ生まれたての小鹿のように頼りない。
「……今日は、もう無理。お腹いっぱいだわ」
いつもと同じ帰り道。
けれど、景色はまるで違って見える。
「……怖いわね。本当に」
クロの横を歩きながら、自分に言い聞かせるように拳を握りしめた。
「でも、逃げるわけにはいかないのよね」
まだ、戦えない。
けれど、大切な「心の糧」を奪われ、子供たちまで取り残されているかもしれない、この世界で、ただ怯えて過ごすわけにはいかない。
「次は……次は、何かやる。足くらいは引っ張らないようにするから」
小さく宣言すると、クロの長い尻尾がゆっくりと空を切った。
それが呆れた合図なのか、それとも励ましなのかは分からない。
でも、隣に温かい体温がある。
それだけで、私はもう一度前を向くことができた。




