第五十二話 母親の覚悟
「入りなさい」
ドアをノックすると、威厳のある低い声が部屋の奥から響いた。
重厚な扉を開けると、ギギギ……と軋む音が室内に反響する。
その音が、私の心臓の鼓動を余計に速めていく。
「し、失礼します……」
緊張のあまり、自分の声が情けないほど震え、小さくなった。
そんな私を余所に、クロは構わずスタスタと中へ入り込む。
そして、部屋の隅にある豪奢なソファを見つけるなり、フワリと飛び乗って優雅に寛ぎ始めた。
「こ、こら! クロ!!」
「ははは……構わんよ。気にするな」
何度も頭を下げて詫びる私を、部屋の主は鷹揚に受け流した。
「……影豹とは珍しいな」
「ご存知なんですか?」
「一度だけ見たことがある。ラグナヴァルトの奥深くでな。神秘的で美しい、孤高の魔獣だと思っていたが……」
——ロルフさんの口元が、ソファで丸まるクロを見て少しだけ緩んだ。
「ずいぶん、可愛らしい魔獣だな」
「はは……どうも……」
緊張しすぎて吐き気がしてきた。
お願い、一刻も早くここから解放してほしい。
「ああ、名乗るのが遅れたな。私は王都ギルド・マスター、ロルフだ」
ロルフと名乗ったその男は、老戦士のような猛々しい出で立ちだった。
筋骨隆々の体躯に、両腕に刻まれた無数の傷跡。
放たれる存在感があまりに強烈で、空気が重く感じる。
「今回君を呼び出したのは、他でもない。先刻の討伐の件だ。Dランクの冒険者が、一人でリバーファングを数十匹、さらにリバーウルフ五体を仕留めたと報告を受ければ、この目で確認せぬわけにはいかなくてな」
「はぁ……」
「ギルバートが嘘を吐くとは思えん。利がないからな。職員にも現場を確認させたが、改めて君の口からも聞いておきたい」
私は胃をキリキリさせながら、事のあらましを事細かに報告した。
「……そうか」
ロルフさんは深く背もたれに体を預け、何かを考えるように沈黙した。
その沈黙に耐えかね、私は思い切って気になっていたことを口にした。
「あの……サンティールの町でも、今年は収穫量や漁獲量が下がっていると聞きました。ここグランヴェルでも、魔獣の被害が不自然に増えています。明るいうちからリバーウルフが群れるのもおかしい。……やはり、上流のヴァルグリムで何かあったのでしょうか?」
ロルフさんが、意外そうな顔をして私を見た。
「ほう、そこまで情報を集めていたか。考察もなかなか鋭い」
「……ヴァルグリムで、何か起きたのですか?」
「……今のところ、ヴァルグリムのギルドから異変の報告は来ていない。だが、上流で『何か』が起きているのは間違いないだろう」
一気に胃のあたりがずしんと重くなった。
「……大丈夫か? ヴァルグリムの生まれだったか?」
「……いえ。ただ、子供たちと逸れてしまっていて。もしかしたら、あの子たちがヴァルグリムの方にいるかもしれないという情報があったんです」
シーンと静まり返った室内に、ノックの音が響いた。
ヴェンデリンさんが戻ってきたのだ。
彼は淀みのない口調で、現場の凄惨な——もとい、詳細な討伐状況を報告していく。
「——以上です」
「……ミサキ。君はDランクだったな? 冒険者になって日も浅い」
ロルフさんの目が、射抜くように私を捉えた。
「君に、ヴァルグリムへの潜入捜査を依頼したい」
「……はぁっ!? はぁぁぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
横からヴェンデリンさんも助け舟を出してくれる。
「ギルドマスター、僭越ながら申し上げます。潜入捜査は極めて難易度が高く、新人である彼女には荷が重すぎるかと」
「そそそそ、そうです! 重いです! 漬物石より重いです!!」
「だからこそだ。向こうでも顔を知っている者はほとんどいない。何より、冒険者になりたてで『冒険者っぽさ』がない。それが武器になる」
「……なるほど」
ちょっとヴェンデリンさん! なんで納得してんのよ! 味方してよ!
「難しいことじゃない。街へ潜り込み、情報を集めて報告するだけだ。女性相手ならボロを出すかもしれん。……それに、何より君には強力な相棒がついている。ちょっとやそっとのことじゃ、やられはせんだろう」
ロルフさんの視線が、ソファの上のクロへ向く。
「……いや、クロは私を助けたりしませんよ! 危機に陥っても教育の一環って感じで、見守るだけのドS猫なんですから!」
「君は、飼ってるんじゃなくて、飼われてたのか?」
「うぐっ……」
否定できないのが辛い。
その後も、夜間に活動する影豹の隠密性を活かすだの、私の洞察力がどうだのと、二人の会話はトントン拍子に進んでいく。
「断ってもいいが……ヴァルグリムの最前線なら、子供の情報も手に入るかもしれんぞ」
……痛いところを突かれた。
もしあの子たちがヴァルグリムの騒動に巻き込まれているのだとしたら。
ギルドのバックアップを受けて潜入できるなら、自分一人で探すよりずっと効率がいいはずだ。
…主婦の底力を舐めないでよね。やってやろうじゃないの!
私の目がギラリと光ったのを、ロルフさんは見逃さなかった。
「……決まりだな。詳細は後日、ヴェンデリンから伝える」
王都グランヴェル、到着初日。
なんて濃くて、そして血生臭い一日だろうか。
私はクロの肉球をむにむにと揉みながら、これから始まる「スパイ活動」という名の、あまりにも高いハードルを見据えていた。




