第四十三話:書き換えられたもの
サンティールの宿に戻った頃には、冷たい雨に打たれた体は芯まで冷え切っていた。
私は宿の主人に頼んで、タライいっぱいのお湯を部屋まで運んでもらった。
「ほら、クロ。あんたもずぶ濡れじゃない。入りなさい」
湯気の上がるタライに、拒むクロを半ば強引に引き入れる。濡れて細くなった彼の体を丁寧に洗い、乾いたタオルで包み込む。
「……ごめんね、本当に」
温かいお湯に浸かりながら、私は何度も呟いた。
クロは無言で、ただ心地よさそうに目を細めて私の手を受け入れていた。
翌朝。
冷え切った体はすっかり回復したが、昨日の騒動のせいで食料の買い出しが手付かずだった。
「……ごめん、クロ。出発は明日にしましょう。今日はしっかり準備をし直さないと」
クロは「やれやれ」といった様子で尻尾を振った。
まずは装備の買い出しだ。私は銀貨を握りしめ、昨日とは打って変わって慎重な足取りで市場へと向かった。
武具屋に入ると、並べられた装備を主婦の目線で厳しく吟味する。
(この革の胸当て、見た目はいいけど重すぎて肩が凝りそう。こっちの防水ブーツ……うーん、底が硬すぎて長距離を歩いたら確実に靴擦れするわね)
デザインや値段に惑わされることなく、実用性と自分の体格に合うかを徹底的にチェックしていく。
店主は「あんた、随分と細かいな」と呆れ顔だったが、命に関わるものを妥協するわけにはいかない。
結局、柔軟性のある良質な革の胸当てと、指先にゆとりがあるが足首をしっかり固定できるブーツ、そして魔獣の牙も通しにくい厚手の外套を選んだ。
(これでよし。昨日はこんな準備すらまともにせず、一人で飛び出したんだわ……)
市場を歩きながら、改めて昨日の自分の無謀さを思い知る。
地図すら満足に読み込まないまま、水も食料も持たず、たった一人で「逆方向」へ走った自分。
もしクロが追いかけてきてくれなかったら、今頃私は人気のない街道沿いで力尽き、野垂れ死んでいたに違いない。
隣を歩くクロの黒い毛並みが、朝日に映える。
その存在に、私は何度も心の中で感謝した。
「……ねぇ、クロ。私、昨日は本当にどうかしてた。あんたがいてくれて、本当によかった」
私がそう呟くと、クロは一度だけ「フン」と鼻を鳴らし、少しだけ誇らしげに胸を張った。
保存食の買い出しを進める道中、私は人混みの中に「あの男」を見つけた。
フードを深く被った、情報屋のセルだ。
私は反射的に足を止め、彼に詰め寄った。
「ちょっと、貴方! セルさんでしょ!」
食ってかかる私に対し、男は怪訝そうに足を止めた。
隣のクロが、これまでにないほど激しく喉を鳴らし、今にも飛びかからんばかりの殺気を放っている。
「……私に何か御用ですか、奥様」
「しらばくれないで! エルドランのことよ。あの子たちがそこにいるって言ったじゃない!」
詰め寄る私を、男は心底不思議そうに見つめた。
「……失礼ですが、私は貴方とお会いするのは今が初めてですが。エルドラン? どこの村の話ですかな。そもそも、私は情報屋などではなく、ただの旅の隠者ですよ」
「なっ……! 嘘をおっしゃい! ギルドでバッシュたちと一緒にいたでしょ!」
「バッシュ? 誰のことですかな。私はたった今、この街に着いたばかりなのですが」
男の瞳には、嘘をついているような揺らぎが一切なかった。
まるで、最初からそんな事実は存在しなかったかのような、平然とした無知。
背筋に冷たいものが走る。
ミサキが混乱して言葉を失っている間も、クロの警戒は解けない。
(何かがおかしい。昨日のあの話は、私を嵌めるための巧妙な作り話だったの? でも、どうしてこの人はこんなに平気な顔をして……)
「……いえ、人違いだったみたい。失礼したわ」
私は逃げるように、足早にその場を去った。
宿に戻り、買ってきた干し肉やパンを整頓しながらも、あの男の無機質な瞳が頭から離れない。
あの大男たちとグルになって、私を担ぎ上げたのか。それとも、私が知らないだけで、この街にはもっと恐ろしい「何か」が潜んでいるのか。
「……ねぇ、クロ。あの男、やっぱり昨日とは別人だったわよね。……それとも、私のほうがおかしくなっちゃったのかしら」
不安に震える私の手に、クロがそっと自分の頭を押し当ててきた。
その温かくて、確かな重み。
「……そうね。あんたがいれば、もう迷わないわ」
私はクロの頭を何度も撫で、ざわつく心を落ち着かせた。
明日には、この気味の悪い街を離れる。
誰がどんな罠を仕掛けてこようと、私は自分の手で、あの子たちが待つヴァルグリムへの道を探し出す。




