第四十二話 強く、気高く
荒い息を吐きながら、私はリーヴァ河沿いの道をひた走っていた。
ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながらも、一刻も早く東の街、リーヴェルへと辿り着かなければという強迫観念が足を動かす。
エルドランへの詳しい道は分からないが、リーヴェルに着いて聞けばいい。
けれど、走れば走るほど、心の中にはドロリとした澱のような違和感が溜まっていった。
昨日の露店主の困り果てた顔。
そして、あの情報屋セルが見せた、あまりに出来すぎた微笑み。
いつの間にか、私の心を表すかのように、空には急速に暗雲が立ち込め、ゴロゴロと不穏な重低音が響き始める。
次の瞬間、私の代わりに泣いてくれているのかと思うほどの激しい雨が降り注いだ。
「っ……ひどい雨……」
一瞬で視界が遮られ、奪われた体温が体力を削っていく。
昨日ベッドでぐっすり眠れたとはいえ、蓄積された疲労はまだ完全に抜けきってはいない。
叩きつけるような雨粒が、むき出しの焦燥感を物理的に打ち据える。
私はたまらず、街道から少し外れた場所にある大きな木の根元へ逃げ込んだ。
巨木の太い根の間に身を沈め、膝を抱えて雨宿りをする。
濡れた服がじっとりと肌に張り付き、体温を奪っていく。
けれど、その刺すような冷たさが、皮肉にも私の沸騰していた頭を冷やしていった。
ふと、ガイルさんの厳しい顔が脳裏に浮かんだ。
『……冷静になれ』
そう言われた気がして、私は深く息を吐き、膝の間に顔を埋めた。
「冷静じゃなかった……全然」
落ち着いて考えれば、あの情報屋の話は不自然すぎた。
たとえヴァルグリムから避難するにしても、地図にも載っていないエルドランは遠すぎる。
避難するなら、より近くて安全な首都グランヴェルのほうがよっぽど現実的だ。
何より、クロがあんなに必死に止めていた。
彼はいつだって、私の知らない「正しい道」を直感で示してくれていた。それを私は……。
「私……クロにあんな酷いこと……」
最後に聞いた、あの悲しそうな鳴き声が耳の奥で木霊する。
自分を助けてくれた相棒を、子供を思う焦りにかこつけて罵倒し、突き放した。
後悔と申し訳なさで、胸が締め付けられるように痛む。
そのとき。
激しい雨音の中に、不意に聞き慣れた足音が混じった。
顔を上げると、そこにはずぶ濡れになりながらも、呆れたような瞳をしたクロが立っていた。
「……クロ」
絞り出すような声が出た。
「クロ……ごめん。ごめんなさい……っ」
焦りと不安でいっぱいだった私の心に、クロという存在がスッと入り込む。
その顔を見た瞬間、我慢していたものが一気に決壊した。
涙が止まらない。
嗚咽まで出る始末で、私は声を上げて、まるで子供のように泣いた。
そんな私を、クロはそっと近づき、冷えた頬を温かい舌で優しく舐めてくれた。
「…………」
その温もりに触れて、ふと思った。
正しい方向を示し、間違いを諭し、泣いている者を慰める。
今のクロは、まるで母親のようじゃないか。
……まあ、性別は知らないけれど。
狩りの仕方を教えるのも、生きる術を教えるのも彼だ。
情けない母親代表のような今の私に比べて、クロはずっと強く、気高い。
(私……もっと強くならないと。クロのように、ちゃんと前を見据えられるように)
ひとしきり泣いた後、私は袖で顔を拭い、立ち上がった。
「ごめんね。……それから、ありがとう」
私がそう告げると、いつの間にか雨は上がっていた。
さっきまでの土砂降りが嘘のような、青空いっぱいの晴天。
雲の間から差し込む陽光が、濡れた木の葉をキラキラと輝かせている。
「帰ろっか、サンティールへ」
私が歩き出すと、クロは当たり前のように私の隣に並んだ。
雲の間から差し込む陽光が、濡れた彼の黒い毛並みをキラキラと輝かせている。
神々が期待していたであろう絶望の結末は、一匹の相棒によって、あっさりと書き換えられたのだ。
――その様子を、天上の「観覧席」から眺めていた者たちがいた。
「……チッ。あの猫、邪魔だなぁ」
「またあいつか」
不機嫌そうに舌打ちをしたのは、先ほどまでミサキの絶望を心待ちにしていた神々だ。
「愛の神の眷属だったな。最近は大人しかったから、諦めたんだと思っていたが」
「全く!いつもシラけるようなことしてくれちゃってさ!」
「……貴方がたも毎度毎度、飽きずにこんな外道のような真似、よくできますね」
不快感を隠そうともしない凛とした声が、神々の間に響く。
そこにいたのは、慈愛に満ちた瞳を曇らせた、愛の神その人であった。
「観測は必要だ。」
「なぁ、お前の眷属どうにかしてくれよ。せっかくいいところだったのによぉ」
「私は干渉しておりません。あの子が、あの子の意志で自主的にやっていることです」
「へいへい、そーですかぁ~」
鼻で笑う神々に、愛の神はさらに語気を強める。
「いい加減にせねば、創造神様への報告も検討せねばなりません。どれだけの人間を壊すつもりですか」
「神だって娯楽は必要なんだよ~」
「私は人間の感情というものを、より深く研究せねばならんのだ」
「貴方がたは本当に……っ!」
愛の神は、怒りに震える拳を握りしめ、再び地上へと視線を落とした。
神々の悪意という巨大な網の中で、たった独り、あるいは一匹と共に抗い続けるあの女性。
(どうか、今度こそ無事で……)
その祈りが届いたのか、サンティールへ戻るミサキの背中には、先ほどまでの迷いは消え失せていた。




