第二十三話 満腹の代償
朝、目が覚めた瞬間――。
「……うぅ……」
胃のあたりに、鉛でも流し込まれたような、ずしりと重たい違和感。
間違いなく、昨日の食べ過ぎだ。
顔を洗おうと立ち上がっても、まぶたが腫れぼったくて視界がいつもより狭い気がする。
指を曲げれば、節々がパンパンに張ってグローブをはめるのが億劫になるほどだ。
(絶対むくんでるわ……四十過ぎると、代償の支払いが早いのよね……)
若い頃なら一晩でリセットされたはずの不摂生。
誰に言うでもなくぼやきながら、私は這うようにして厩舎へ向かった。
厩舎に着くと、クロは既に起きていた。
相変わらず、無駄に姿勢良く座っている。
だが、今朝はなんだか様子が違った。
「……クロ、なんかツヤツヤしてない?」
光の加減だろうか。
漆黒の毛並みが、まるで上質なベルベットのように輝いている。
指で触れたら、そのまま滑り落ちてしまいそうだ。
クロはちらりとこちらを見たが、すぐに何事もなかったかのように、すまし顔に戻った。
(……いいお肉を食べると、こうも如実に外見に出るものかしら。私のむくみとは大違いね)
チラっと私の顔を見たクロが、ふんと鼻を鳴らす。
「……そんなに酷い顔してますかねぇ?」
じとっと睨むと、クロに「やれやれ」と鼻で笑われた気がした。
「朝飯やらねーぞ、こら」
ぴくり、と耳が動く。現金なやつだ。
宿の食堂に座ったものの、漂ってくる肉の焼ける匂いにさえ胃が「NO」を突きつけてくる。
(コーヒー……せめて、渋めの緑茶。胃の脂を全部洗い流してくれるような、冷たくて鋭い飲み物が欲しい……)
ぼんやりしていると、宿の主人がニヤニヤしながら声をかけてきた。
「なんだぁ? ひっでぇ顔しやがって。胃もたれか? 若くねぇんだから、ほどほどにしとけよ!」
「余計なお世話じゃ!!」
思わず机を叩く。
「誰のせいだと思ってんのよ! あんな美味しいもん出すからでしょ!? 罪深いのは、あんたの料理の方よ!」
一瞬の沈黙。
そして――
「ガハハハハッ!」
主人は腹を抱えて笑い出した。
「そいつは光栄だ! じゃあ、これでも飲んどけ。薬草茶だ」
置かれたのは、琥珀色の透き通った液体。
(出たわね、薬草……)
あの毒消しの悶絶するような苦味を思い出し、顔が引きつる。けれど、意を決して一口含んでみると、予想に反してすっと喉を通った。
「……あれ。美味しい……」
雨上がりの森のような、清涼感のある香り。
ミントに近い爽やかさが喉を駆け抜け、重たく停滞していた胃の腑が、しゅわしゅわと解けていく。
「クロにはこれだ。ほらよ、たんと食え!」
主人が次に置いたのは、脂の乗った分厚い焼き肉だ。
香ばしい匂いが立ち上った瞬間、私の胃がわずかに悲鳴を上げたが、クロには関係なかった。
いつも通り行儀よく座ってはいるものの、目が、昨日の肉を見たときと同じ「獲物を狙う目」になっている。
次の瞬間には、ガツッ!と音を立てて肉に食らいついた。
(ほんと、ブレないわね……)
脂の塊をバクバクと咀嚼し、飲み込んでいく。
昨日の今日で、よくそんなものが喉を通るわ。
若さのせい? それとも種族の差?
ツヤツヤの毛並みを揺らしながら無心に肉を平らげるクロと、ちびちびとお茶をすする自分を比べ、私はもう一度溜息を吐いた。
「少しはマシになったか? お前も少しは腹に入れとかねぇと持たねぇぞ」
主人が差し出してくれたのは、薄味のスープだ。
「……ありがとうございます」
優しい出汁の味がじんわりと体に染み渡る。
昨日の「暴力的な旨さ」とは違う、今の私に寄り添ってくれるような味。
隣では、クロが最後の一欠片を飲み込み、満足そうにペロリと口元を舐めていた。
「よし。今日もウサギ、狩りまくるわよ!」
胃もたれを薬草茶とスープでねじ伏せ、私はぐっと拳を握る。
店を出ると、朝の空気が昨日より心地よく感じられた。
後ろからは、満腹でさらにツヤを増した(気がする)黒い塊が、「やれやれ」という空気を纏ってついてくる。
(……悪くない、か)
私は再び、黄金色の草原へと足を踏み出した。




