第二十二話 満たされる夜
クロが咥えて持ち帰ったウサギは、想像以上に立派な獲物だった。
宿の食堂に持ち込むと、主人は目を丸くしたが、すぐにニヤリと笑った。
「ほぉ、いい肉だ。任せとけ」
手際よく切り分けられ、厨房から焼ける音と香草の香りが漂ってくる。
……それだけで、お腹の虫が猛抗議を始める。
クロはいつになく姿勢正しく座っていた。
行儀よく、じっと待っている。
……ただし、視線だけは完全に肉に釘付けだ。
しばらくして運ばれてきたのは、使い込まれた鉄板のまま供された、熱々のウサギ肉だった。
「ほらよ。火傷すんなよ」
置かれた瞬間、弾けるような油の音と共に、強烈な香りが鼻腔を突いた。
まず感じるのは、鼻の奥がスッとするようなローズマリーに近い爽やかな香草の香り。
そこに、じっくりと熱を通された野生肉特有の、力強い脂の匂いが混ざり合う。
黄金色に焼き色のついた肉の表面には、肉汁がふつふつと泡を立てて浮き出している。
添えられた野生のタマネギのような野菜は、肉の脂を吸って艶やかに光り、焦げた端から甘い匂いを放っていた。
クロの目が、何時になく輝いている気がする。
皿に移して、目の前に置いてやる。
「……いつもありがと、たくさん食べて」
声をかけたが、たぶん聞こえていない。
次の瞬間にはもう夢中でかぶりついていた。
うん、完全に無視ね
「……いただきます」
ナイフを入れると、驚くほど素直に刃が通った。
切り口から、閉じ込められていた湯気が一気に溢れ出す。
一切れを口に運ぶ。
奥歯で噛み締めた瞬間、パリッと小気味よい音を立てた表面の皮が弾け、中から濃密な旨味のスープが溢れ出した。
(……あ、これ、すごい)
鶏肉よりもずっと筋肉質で、噛めば噛むほど滋味が染み出してくる。
それでいて嫌な野生の臭みは一切ない。
振りかけられた岩塩の尖った塩気が、肉の甘みをこれでもかと引き立てている。
付け合わせの野菜を口に放り込むと、シャキッとした食感の後に、肉の脂のコクが舌の上でとろりと広がった。
「……おいしい……」
現代日本で食べていた「加工された肉」とは違う。
さっきまで生きていた命を、炎と鉄でねじ伏せて食らう、暴力的なまでの美味。
一口ごとに、指先の冷えが取れ、胃の奥からじんわりと熱が広がっていくのが分かった。
気づけば、私も夢中で食べていた。
「はは、いい食いっぷりだな」
いつの間にか主人がこちらを見て笑っていた。
「……あの、これ、おいくらですか?」
我に返って聞くと、「銅貨三枚でいい」と返ってきた。
「安すぎません!?」
「肉持ち込みだろ? その分だ。……なぁ、多めに持ってきたら、うちに卸してくれねぇか?そうすりゃお前の食費はタダにしてやるぞ」
「……まじ?」
思わず呟き、私はぐっと拳を握りしめた。
「明日からウサギ、狩りまくるわよ……!」
食事を終える頃には、心身ともに満たされていた。
「はぁ……お腹いっぱい……」
椅子にもたれ、深く息を吐く。
この世界に来てからずっと気を張っていた。
食事を「美味しい」と感じる余裕なんて、どこにもなかった。
今日はいい日だった。
報酬も入り、ランクも上がり、クロも満足してくれた。
……このまま寝たい。
けれど、体も拭きたいし服も洗いたい。
お風呂と洗濯機が恋しくてたまらない。
現実に小さく溜息をつき、私は重い腰を上げた。
クロを厩舎へ送り、部屋で濡らした布で体を拭く。
(この世界って、お風呂ないのかしら……)
明日、イルダさんに聞いてみよう。
ガイルさんに聞くのは、なんだか……乙女(?)として抵抗がある。
でもイルダさんに聞いて、怪しまれたりしないかしら?
一通り身支度や洗濯を済ませ、気になって再び厩舎を覗いてみた。
クロは私の足音に耳だけをぴくりと動かしたが、一瞥もせずスヤスヤと眠っている。
「……ふふ、おやすみ。また明日ね」
部屋に戻り、ベッドへ倒れ込む。
明日はウサギをいっぱい狩って、干し肉の作り方を教わって、それから……。
瞼が重い。
思考が溶けるように途切れていく。
ミサキが深い眠りに落ちた、その深夜。
「……満たされた顔だな」
静かな声が、闇に零れた。
「それでも、進むのか」
わずかな沈黙の後、声は冷たく響く。
「……どこまで耐えられる」
その不穏な問いを聞く者は、この街には誰もいなかった。




