第十七話 それでも、殴る
朝起きてすぐ、クロのいる厩舎へ向かう。
クロはもう起きていて、呑気に毛づくろいをしていた。
(……こっちは色々考えて寝付けなかったっていうのに、なによその余裕は)
恨みがましく睨みつけると、クロは知らん顔で伸びをしてから私の元へ歩み寄ってきた。
「くそ、可愛いわね……。猫系ってこれだからズルいわ」
ブツブツ言いながら、宿の食堂でクロと手早く朝食を済ませる。
ギルドに向かうと、そこには既にガイルの姿があった。
「おはようございます!早いですね。」
「行くぞ」
それだけ言うと、彼は振り返りもせずに歩き出す。
「え、今からですか?」
「今だからだ」
相変わらず会話のキャッチボールが成立しない。
慌てて後を追う。
クロも、静かに付いてくる。
町を出て、昨日と同じ草原へ。
風が抜ける、開けた場所だ。
「そこに置いとけ」
ガイルが顎で、近くの大きな岩を示す。
その根元に、昨日買った肩掛けバッグを下ろした。
「軽く見て回るぞ」
2人で周囲を警戒しながら歩く。
クロは後ろからついてきている。
草を踏む音だけが静かに響く中、ガイルが鋭い声をあげた。
「……止まれ」
ガイルの声。
同時に、草むらが揺れた。
細長い影が滑り出る。
地を擦る、低い音。
「ヴァイパーだ」
蛇型の魔獣。
筋肉が波打つたび、鱗が光を鈍く返す。
舌が、ちろりと空気を舐める。
距離を測られている。
「来るぞ」
次の瞬間。
空気を裂くような速度で、一直線に跳ねた。
「っ——!」
反射で身体を捻る。
頬のすぐ横を、風が裂ける。
遅れて、地面に牙が突き刺さる鈍い音。
土が弾けた。
その直後。
「下がれ!」
ガイルの声。
ヴァイパーの喉が膨らむ。
——ぶしゅっ
粘ついた液体が弾けるように飛び散り、避けきれなかった私の腕にまとわりついた。
「っ……!」
焼けるような痛みが走る。
皮膚の表面だけじゃない、じわじわと内側へ染み込んでくる毒の感覚。
指先に力が入りにくくなり、視界がわずかに歪む。
「毒!?」
遅れて理解する。
皮膚の奥で、じくじくと何かが広がる。
脈打つたび、痛みが押し出される。
「……っ、これ……」
指先に力が入りにくい。
視界が、わずかに揺れる。
でも。
「……これくらい」
息を吐く。
喉が熱い。
「悪阻より、マシ……!」
踏み込む。
ヴァイパーの身体が再び弓なりにしなる。
来る。
今度は見える。
軌道が、読める。
「——そこ!」
半歩ずらす。
牙が頬の皮膚を浅く裂く。
熱が走る。
それでも、拳を振り抜く。
当たる瞬間、柔らかいのに硬い感触。
ぐしゃり、と潰れる手応え。
骨に届く前に、肉が沈む。
衝撃が腕に返る。
ヴァイパーの頭部が横に弾け、身体がもつれて転がる。
地面に叩きつけられ、細長い胴がびくびくと痙攣していた。
「……はぁ……っ」
息が荒い。
心臓がうるさい。
まだ、少し視界が滲む。
「お前……」
ガイルが近づく。
「普通、あの毒食らったら動けねぇぞ」
「そうなんですか……?」
自分でも、指先の感覚が少し曖昧なのがわかる。
「そうなんだよ」
呆れたように言う。
「ほら、これ飲め」
差し出されたのは、小さな丸薬。
「毒消しだ」
口に放り込む。
噛んだ瞬間。
「——っ!?」
えぐい苦味が、舌を刺す。
喉に貼りつくような後味。
思わず顔が歪む。
「なにこれ……!」
「効くぞ」
数秒。
じわり、と身体の奥の重さが抜けていく。
さっきまであった鈍い圧が、すっと引く。
「……ほんとだ」
指先に力が戻る。
「だから言っただろ」
「でもまだ不味い…」
私、すごい顔してると思う。
息を整える。
まだ心臓は早いまま。
「……次、行きますか」
「その前に——」
ガイルが言いかけた、そのとき。
クロが、ぴくりと耳を動かした。
空気を嗅ぐように、顔を上げる。
次の瞬間。
地面を蹴った。
一直線に、岩の方へ走る。
「クロ!?」
慌てて追う。
草をかき分ける音が、やけに大きく聞こえる。
岩が見える。
その手前。
小さな影が、しゃがみ込んでいる。
「……っ」
近づくにつれて、輪郭がはっきりする。
緑がかった皮膚。
湿ったような光沢。
歪んだ顔。
人に似ているのに、決定的に違う。
——ゴブリン。
バッグを開け、雑に中を漁っている。
布を引き裂く音。
「……なに、あれ」
喉の奥が、ひくつく。
人の形をしている。
腕がある。
指がある。
顔がある。
目が合った。
濁った瞳。
にやり、と口が歪む。
「っ——!」
地面を蹴って、突っ込んでくる。
速い。
低い姿勢。
反射で身体を引く。
すれ違いざま。
「……っ、くさ……!」
鼻を刺す臭い。
腐敗と湿気が混ざったような、生臭さ。
喉の奥に貼りつく。
吐き気が込み上げる。
胃が、反応する。
毒消しの苦味が戻ってくる…
「……うぇ。」
距離を取る。
呼吸が浅くなる。
それでも、構える。
ゴブリンが再び向きを変える。
足音が軽い。
間合いが詰まる。
拳を握る。
でも——
「……」
止まる。
殴る、のか。
これを。
「来るぞ!」
ガイルの声。
思考が途切れる。
次の瞬間、もう目の前にいる。
「っ!」
腕を上げる。
衝撃。
軽い。
だが、速い。
何度も叩き込まれる。
防ぐので精一杯。
骨に、細かい振動が残る。
「……っ!」
押される。
足がずれる。
反撃しようと、腕を引く。
その瞬間。
顔が、近い。
息が、かかる。
臭い。
「……!」
一瞬、止まる。
「ギィッ!」
振り下ろされる腕。
「っ!」
肩に当たる。
鈍い衝撃。
身体が後ろに流れる。
「そんなこと言ったって!」
思わず叫ぶ。
「人なんて、本気で殴ったことないのよ!」
息が乱れる。
「いや、人じゃないけども!」
もう一歩、詰められる。
「——あーもう!!やりにくい!!」
叫びながら、下がる。
防ぐ。
避ける。
それだけ。
「迷うな!」
ガイルの声が飛ぶ。
「そいつは人じゃない!」
「魔物だ!」
「ゴブリンだ!」
「んなこと言ったって…っ!」
わかってる。
頭では。
でも、身体がついてこない。
そのとき。
背後で、草が揺れる音。
もう一体。
挟まれた。
「やば——」
視界が狭くなる。
前も後ろも、詰まる。
逃げ場がない。
その瞬間。
どんっ
鈍く、重い音。
後ろの気配が止まる。
ちらりと視線を向ける。
クロがいた。
もう一体のゴブリンを、前足で踏みつけている。
体重をかけ、完全に押さえ込んでいる。
逃げられない。
ガイルは剣に手をかけるが、抜かない。
様子を見ている。
前のゴブリンが、再び飛び込んでくる。
「……っ」
息を吸う。
肺が痛い。
「……人じゃない」
呟いて、自分に言い聞かせる。
踏み込む。
距離を詰める。
逃げるんじゃなく、懐に入る。
腹に拳を叩き込む。
めり込む感触。
柔らかいのに、奥で抵抗がある。
「ギッ……!」
空気が抜けるような声。
ゴブリンの身体が折れる。
そのまま——
横から、もう一発。
側頭部。
衝撃が拳に伝わる。
骨に当たる前の、鈍い弾力。
頭が横に弾ける。
身体が崩れ、地面に倒れ込む。
「……っ、はぁ……っ」
息が荒い。
手が、じんと痺れている。
終わった。
そう思った瞬間。
後ろで、動きがあった。
クロが、足をどけている。
「っ!? クロ、なにして――」
解放されたゴブリンが、転がるように起き上がる。
一瞬、クロを見る。
勝てない相手と悟り、視線が、こちらに向く。
「っ!?」
来る。
速い。
近い。
考える前に——
足が出る。
「——っ!」
硬い感触。
同時に、嫌な手応え。
めきっ、と鈍い音。
股間に、直撃。
ゴブリンの動きが止まる。
口が開いたまま、声が出ない。
そのまま、崩れ落ちる。
沈黙。
風の音だけが、戻る。
「……」
「……ご、ごめんね」
思わず、口に出る。
ガイルが、無言で顔をしかめる。
クロは、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……終わり、か」
ガイルの声。
「……はい」
息を吐く。
拳が、わずかに震えている。
さっきの感触が、まだ残っている。
柔らかさと、硬さ。
ぶつかった感触。
離れない。
「……殴れた」
小さく、呟いた。
毒消しの味は正〇丸をイメージしてます。
あれを歯に詰められたときの苦行は忘れもしない。




