第百五十話 大シャーマンの憂い
「お前さえ来なければ!!!」
エイノンの感情は限界を迎え、床に片膝をついた状態で腰の短剣を一瞬で引き抜く。
指先がかすめるほどの至近距離。
研ぎ澄まされた刃先が、鋭い殺気を孕んで私の首元へ吸い寄せられるように下から上へと斬り上げられる。
迫る刃先。
エイノンの白目には網の目のように血線が走り、眉間には狂気じみた皺が刻まれていた。
避けなければ、確実に刺さる。
だが、私の頭は驚くほど冷え切っていた。
感情に任せて突き出された攻撃は、動きが大きく、軌道も丸見えだった。
(——回避して、空振りさせて、その隙を突く!)
私は最小限の動きで上体をひねって刃をかわすと、踏み込んできたエイノンの前腕を払うようにして軌道を逸らす。
斬り上げた腕が頭上へ跳ね上がり、胴が完全に開いたところに一撃を放つ。
「ぐあぁ!」
エイノンはよろめき、後ろに尻もちをつくように倒れ込んだ。
しかし、加減しすぎたためか、エイノンはすぐ立ち上がり短剣を構えた。
「それ以上動けば、お前の喉元に食らいついてやるぞ……」
低く唸るような声が部屋に響くが、声の主は姿を見せない。
エイノンの足元を見れば、影に潜むクロの黄金の瞳が月明かりを反射して光った。
「……影豹だったか」
足元を見て苦々しげに吐き捨てたエイノンの顔色は一変し、短刀を下げて力なく座り込んだ。
「タリエシン様!しっかりしてください!!ほら、着きましたよ!」
家の住人である男性が、タリエシンさんを背負って戻ってきたが、タリエシンさんは眠気と酔いでまだ意識が覚束ないようだった。
「おぉ……。すまんのう。して、セリスはどこかの……」
男性の背から降りたタリエシンさんは、辺りをキョロキョロと見回す。
エイノンの手に短剣が握られているのを一瞥した後眉をひそめたが、特に何も言わずにセリスへ近づいて診察を始めた。
セリスに手をかざし、何かをブツブツと唱えている。
暫くするとセリスの身体が朧げに光を帯び始め、気づけばどこから出てきたのか、蛍のような精霊達がいくつもセリスの上をふわふわと浮いていた。
「タリエシン様……。セリスは大丈夫でしょうか?」
エイノンは四つん這いでセリスの近くまで移動し、心配そうに覗き込みながら尋ねるが、タリエシンさんは頭を振って暫く押し黙った。
「……森の精霊の精神攻撃がかなり効いたようじゃ。私の緩和術と防護術では防ぎきれんかった」
「そんな……。では、セリスは……」
エイノンの声が震え、顔は見る見る青ざめていった。
「どこまで回復するかは分からぬが、目が覚めてから再度診てみよう。それから……」
タリエシンさんは、投げ捨てられた短剣にチラリと視線を移してエイノンを見た。
「エイノン。セリスがこのようになったのは、ミサキやメルケのせいではないぞ」
パッと聞いた感じは穏やかな声だった。
しかし、穏やかな声の中には、わずかな怒りが滲んでいた。
「しかし!こいつらが来てから散々です!!やはり人族など引き入れるべきでは——っ!」
「愚か者めっ!!!」
エイノンが話している途中で、タリエシンさんが一喝した。
「セリスが森に入ったのは、我らの教育不足だ。それを他人のせいにするなど、あってはならぬ!!」
いつも崩さない柔和な笑みは消え、その目は驚くほど鋭く、エイノンを射すくめている。
部屋の空気までがピキリと凍りつき、聞こえるのはセリスの浅く弱い呼吸音と、外でザワザワと揺れる夜風の音だけになった。
エイノンはぐうの音も出ずに、ただ俯いている。
「それに、散々なのはミサキだろう。村に来てから村人全員から言われのない悪意に晒され、セリスに勝負を持ちかけられたかと思えば、複数人から追いかけ回された。おまけにセリスが勝手に森に入ったのを連れ帰ったにも関わらず、親のお前はミサキのせいだと責め立てて……」
タリエシンさんは、眉を下げて深いため息を吐いた。
「……なんと、情けないことか」
タリエシンさんの声は絞り出すように細く、しかし部屋の全員の胸を刺すほどに重かった。
言葉の裏にあるのは、エイノン個人への叱責だけではない。
不都合があれば人族のせいにし、自省を忘れた村人たち。
このまま閉ざされた森で誇りばかりを肥大化させていけば、いずれ種族そのものが内側から腐敗し、破滅していく——
そんな暗い未来を予見しているかのような、悲痛な響きが含まれていた。




