第百四十七話 息が、出来ない
「何処まで行ったのかしら……」
家を抜け出し、川向こうの森の方角へ行くセリスを見つけて追いかけて来たが、見失ってしまった。
「……こっちだな。やはり川向こうの森へ入ったようだ」
クロは顔を上げて空気中の匂いを嗅いでいるのか、鼻をヒクヒクさせながら言った。
「飛び石を渡って行ったのね。中は迷うだけなのよね?魔獣もいるの?」
「知らん。タリエシンがどんな術をかけているか見ただけで全てが分かるわけないだろう。昔は魔獣も沢山いたからな。下手すれば死ぬんじゃないか?」
と、クロは何でもないように、あっけらかんと言ってのけたが、私はその言葉を聞いて一気に血の気が引いた。
「はぁ?!迷うだけじゃないの?!は、ははは早く行って止めなきゃ!!!」
「死んだとしても自業自得だ。お前が気にする必要は——……」
クロが何か喋っているのが聞こえた気がしたが、私の頭の中はパニックになっていて、それどころではなかった。
思っていたよりマズイ状況かもしれない事態に、私の心臓はどんどん激しく脈打つ。
足を滑らせそうになりながらも、どうにか飛び石を使って川向こうまで渡りきり、私は森の入り口で叫んだ。
「セリス!!セリスどこ?!いたら返事して!」
「おい!!俺から離れるな!お前まで迷ったら探す手間が増えるだろ!!」
クロが早足で駆けてきて、不服そうに後ろから声をかけた。
「クロなら匂いで辿れるでしょ?!セリスはどっちにいるの?」
「……はぁ。落ち着け。全く、お前は他人のことに首を突っ込みすぎだ」
クロはグチグチ文句を言いながらも、空気に漂う微かな匂いを捕らえようと顔を空に向ける。
「もう森に入っているな……。あっちだ」
クロは森の奥を顎でしゃくって教えてくれる。
月明かりに照らされているはずなのに森の奥は光が届かないのか、真っ暗でどこか不気味だった。
夜風が吹く度に木の葉が擦れ合い、まるで私達の侵入を拒むかのようにザワザワと音を立てている。
「さぁ、行くわよ……」
思わずゴクリと唾を飲み込み、私達は森へ一歩踏み出した。
◆ ◆ ◆
「何なのよ、コレ……」
タリエシン様に『この話は成人した者にしか話さぬ』と一方的に話を打ち切られ頭にきた私は、夜に皆が寝静まった頃を見計らって森に侵入してみた。
最初こそ『普通の森と変わらないじゃない!』と息巻いてどんどん奥に入って来たが、途中から様相が変わってきた。
歩いてきた道を振り返れば、道がなくなっている。
木を目印にと思って短刀で傷をつけても、傷がないどころか木そのものがなくなっている。
虫の鳴き声ひとつ聞こえず、まるで森全体が自分を閉じ込めて嘲笑っているかのようだった。
「……精霊が、怒ってる?」
小さい頃から叩き込まれた教えが、頭を掠めた。
タリエシン様ははぐらかしたのだと思っていたが、精霊は本当にいて森に入った者を迷わせるのだとしたら、自分は無事にここから出られるのだろうかと、一気に不安が全身を蝕みはじめた。
「大丈夫……。とりあえず来た方角へ戻ろう」
そう言って後ろを振り返ったときに人影が視界に入った。
「……か、母様?」
私と同じくらいの背丈で、長い髪を後ろで束ねたダークエルフの女性がいた。
「まさか。母様は10年前に……」
その先を言うことが出来ず、私は言葉に詰まった。
母様は狩りの最中にジャイアントボアに遭遇し、運悪く命を落としたのだ。
その母様が、何故か目の前にいた。
「セリス。何故ここに?母様は悲しいわ。言いつけも守れないの?」
死んだはずの母様は酷く悲しそうに眉を下げて、目に涙を溜めている。
私は何も言えず、口からはただ浅くなった息が漏れ出てくるだけだ。
「セリス。誇り高きダークエルフが、森の精霊を怒らせるなどあってはならないわ。早く出るのよ」
母様は私の来た方角と思われる方向を指さし、早く帰れと急かした。
「で、でも!森に精霊がいるのかとか、タリエシン様が何か隠してるんじゃないかとか、確認したいことが……」
そう言いかけると、母様の表情は一変した。
悲しそうだった表情は、みるみる怒りに満ちた顔になり、目はつり上がって眉間や鼻にはシワが寄る。
口は歯を食いしばって、血が流れ出すほどだった。
「お前は……。ダークエルフの恥さらしだ!!」
そう言った母様の頭からは、次第に血が流れ出した。
「あ……あぁ……」
私はあまりの光景に足が竦み、声もうまく出すことが出来ず、その場にへたり込んでしまった。
母様の顔を見たくなくて、ただただ地面に蹲って耳を塞いだ。
自分の呼吸音と心臓の音だけが響く。
「ごめんなさい!ごめんなさい!!」
私がずっとそうやって蹲っていると、ジャリ……と横で砂が擦れる音がした。
足音だ。
私は慌てて身を起こし、その音の正体を確認した。
深い藍色のローブに身を包み、月を模した銀の首飾りを付けた人物がそこに立っていた。
「タ、タリエシン様……」
何故ここに。という疑問は浮かばなかった。
ただただ、先程の恐ろしい光景から逃げたくて、私はタリエシン様に縋り付いた。
「タリエシン様!申し訳ありません!!掟を破りました!ですが、助けてください!!先程、母様が——」
そう言って母様がいたほうを振り返るが、そこには何もなかった。
ただ、木々が夜風に吹かれてカサカサと音を立てている光景に、私は何かを言いかけたまま、唇をわなわなと震わせた。
「う、嘘ではないのです!さっき母様が!」
必死にタリエシン様のローブを掴んで訴える私に、タリエシン様は目を細めて冷たく吐き捨てた。
「大嘘つきの愚か者め。お前のような掟破りは必要ない。ここから出ていくのじゃ」
「も、申し訳ありません!!ですが——っ!」
私は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に弁明した。
しかし、タリエシン様は冷たく睨み、私のすがりつく手を引きちぎるようにして、強引にローブを翻した。
「汚い手で触れてよい物ではないぞ。早く私の前から消えよ」
タリエシン様はそう言って身を翻したかと思うと、次の瞬間には消えていた。
いや、正確には父様になっていた。
「セリス……。何をしている?」
父様の目は汚い物を見るかのようで、酷く不快だと言わんばかりに顔を歪めていた。
「と、父様……?助けてください!帰り道が分からないのです!!」
私は今まで向けられたことのない視線に戸惑いつつも、いつも優しい父様に助けを求めた。
しかし、帰ってきた言葉は私を地獄の底に叩き落とした。
「……掟すら守れぬ子供など不要。ダークエルフとして恥ずかしくないのか?お前のような者は、あの時死ぬべきだったのだ」
「な、何を言って……?」
私は父様から言われたことが分からなかった。
ただ、どういうわけか身体は震え、力が入らない。
聞きたくないと、拒否をしているかのように、耳が遠くなる。
「お前がいたから、お前の母はジャイアントボアに殺されたのだ。お前さえいなければ、アイツは生きていた。その上、掟まで破るとは……」
父様は呆れたように大きく息を吐いたかと思うと、私を一瞥して冷たく吐き捨てた。
「お前は生まれてこなければ良かったのだ」
耳が遠くなった気がしていたのに、その言葉だけは明瞭で、頭の奥まで木霊しているように感じた。
全身の血が引いていく。
金縛りに遭ったように指一本動かせず、視界が急速に黒く染まっていく。
ずっと、その言葉がぐるぐると私の全身を駆け巡り、身体の力を奪っていく。
「私が……。私のせいで、母様が……?」
喉の奥が痛い。
口が渇く。
胸が苦しい。
——息が、出来ない。




