第百二十七話 お母さんはネコバス
矢が降り注ぐ中、私はひたすら走った。
肺が悲鳴を上げて胸が痛くなり、足は何度ももつれながらも懸命に走った。
時折クロが矢を粉砕する音が聞こえるが、だんだんと聞こえなくなった。
それでも、クロが良いと言うまで前しか見ずに走りまくった。
しかし、私は40過ぎたオババだ。
全力疾走で何キロも走れない。
次第にスピードは遅くなり、足を石に引っ掛けて盛大に転び、ストップした。
「ぜぇ……ぜぇ……も、もう……走れない」
寝転んだままそう言うと、クロは『情けない奴め』と言わんばかりに上から覗き込んで、私を冷ややかに見下ろした。
「随分、下ってきちゃったわね……。元のルートには戻れないだろうから、どう行こうか」
私はどうにか身体を起こして、息を整えながら地図を引っ張り出した。
そして、ノクス=ヴェリアの首都まで行けるルートが他にないか目を皿のようにして探した。
「こっちなら……行けるかも?でも切り立った崖かぁ……」
唯一行けそうなルートは、かなりの断崖絶壁らしく『少しでも踏み外せば危険』とご丁寧に注意書きまでされていた。
正直行きたくはない。が、ここを通らないとさっきの雨のように矢が降ってくるルートを行くことになる。
道なき道を突っ切るのは、登山経験もない私には遭難リスクが高すぎて無理だ。
「断崖絶壁の道を通ってる時に襲われたら、ひとたまりもないんだけど……。ま、行ってみないと分からないわよね」
危険と書かれたルートを通るような奴はほとんどいないだろうし、わざわざ監視を置く必要もない。
と、思ってくれていることを願って、私はクロとその道を目指して進んだ。
「ちょっと待って……。もしかしてアレが道なの?」
暫く進んだ先に見えたのは、六角柱状の柱が集まったような鋭く切り立った崖に、へばりつくように走る道。
道とは言ったものの、それは道の体を成しているのかどうかも怪しく、道幅は50cmほどに見える。
滑落防止の柵などは一切なく、あるのは山側に打ち付けられた手すり代わりのワイヤーが一本だけというお粗末なものだった。
崖下は目も眩むような光景が広がり、落ちたら絶対に助からないと言い切れる高さがある。
「これは……渡るべきじゃないわね」
自慢じゃないが、私はよく柱や壁にぶつかるのだ。
何もないところで躓くのもお手の物で、運動神経は良いはずなのに、何故かよくやらかす。
そのためウチでは『お母さんが動いたら、必ず周りが避けなければならない』という理不尽な家訓ができたほどだ。
そんなネコバスのような扱いを受けるほどの私が、あの断崖絶壁の足場も悪い道を踏み外さずに行けるとは、到底思えなかった。
「一旦、フリージアへ降りて別の国から入国するべきかしら?」
そんなことを考えて地図とにらめっこしている間に、クロは先に行ってしまっていた。
「ねぇ、クロ。どう思う?やっぱり下に降りてから別ルートで……あれ?クロ??」
私はクロが先に行ったことも知らず、クロを探して辺りを見回した。
「ま、まさか……もう行っちゃったの?!」
ハッとして断崖絶壁の道を見れば、遥か前方でピョンピョン跳ねながら楽しそうに進むクロの姿を見つけた。
「ちょっ……!!……マジ?」
あんな先まで行かれては、もう着いていく他ない。
大声を出して呼べば、ダークエルフや野盗、もしかしたら魔物もおびき寄せてしまうかもしれない。
「……あぁ!もう!!どうにでもなれ!」
半ばヤケクソになりながら、気合を入れて歩みを進めた。
どんどん道は狭くなり、足場も悪くなっていく。
最終的に横向きでしか進めなくなっていた。
「これは……マジで死ぬかも………」
この先、これ以上道が細くなると落ちると思い、どうかこれ以上の悪路になりませんようにと願いながら、打ち付けられたワイヤーを掴んでは、慎重に足を動かした。
暫く、そんな悪路を必死に進んで行くと、少し先の開けた場所にクロが寝転がって私を待っているのが見えた。
「やっと追いついた……。もう!置いてかないでよね!」
そう言って一歩進み、ワイヤーを掴み直そうとした瞬間、私のいた足場が崩れた。
マズイ!と思ったときには、左手だけでワイヤーにぶら下がっている状態だった。
必死に足を岩壁に引っ掛け踏ん張ろうとするが、足場がどんどん崩れていく。
焦って足をバタつかせれば、更に酷く足場が崩れるという悪循環だった。
そして、頼みの綱だったワイヤーが、『ブチッ』という嫌な音をたてて切れた。
その瞬間、私は宙に投げ出された。
(え……)
何が起きたか分からなかった。
ただ、落ちていく光景が、酷くスローモーションに見えて、何だか現実味がなかった。
次の瞬間には私は目を瞑り、いつか来るであろう衝撃に身を固くした。
ズシン!と重い衝撃が走り、リュックの肩ベルトが両脇に食い込むのが分かった。
「へ……?」
リュックが何処かに引っかかったのかと思い、命拾いしたと思って宙吊りのまま見上げれば、崖のフチで前脚を踏ん張り、私のリュックをすんでのところでガッシリと噛み止めているクロの姿があった。
見誤れば一緒に落ちる、危険な姿勢だ。
「クロ?!危ないわよ!クロまで落ちちゃう!!」
私が叫ぶとクロは鼻にシワを寄せ、どこか怒ったような雰囲気を醸し出した。
そして、力任せに私を後方に放り投げた。
「ひ……ぎぃゃあぁぁぁぁぁぁ!!!」
みっともない叫び声を上げながら、私はさっきまでクロが横になっていた開けた場所に、左半身を打ち付けながら着地した。
「いたたた……。助かった……」
クロがいなかったら確実に死んでいた。
この世界に来てから、何度救われただろうか。
クロの方を見れば、崩れた足場から、こちらの広場へ悠々と歩いて来ていた。
「クロ、ありがとう……」
私の傍へ来たクロへ礼を言うと、クロはさも不満そうな顔をして口を開いた。
「全く。お前はいつになったら、まともに歩くことが出来るんだ」
「……は?」
訳が分からず、ぽかんと口を開けてクロの顔を見つめる私を、クロは顔を顰めて話し続けた。
「その間抜け面は止めろ。気が抜ける」
「しゃ、しゃべ……!?喋ったぁぁぁぁぁ!!!?」
私の叫び声は、断崖絶壁の山々に反響して酷くうるさく聞こえた。




