19.夢想の中の少女、漆紀との邂逅
体は、湿った土と草に沈んでいた。先程まであった鼻を犯すような己の血液の臭いは消え失せ、香しい土、すなわち自然の匂いが鼻を刺激する。
「あれ? なんか、痛くないんだけど……」
漆紀は痛みが一瞬で消えた事に驚いて目を開けると。
「あいつらがいない……でもここって、あの公園だよな?」
辺りを見回すと先程までいた宝和記念公園の原っぱと見受けられるが、どういうわけか濃霧が立ち込めている。視界不良のゆえ、それほど遠くを確認出来ないので自分が一体どこにいるのか、比喩でも何でもく本当に分からないのだ。
自分の体を確認すると傷が全て塞がっている。手術して縫ったような跡も無く、まるで斬られる前の体そのものである。
死に際にみる走馬灯とも思えず、自分がいるのが一体どこなのか分からない事と先程まであった傷が完全に無い事に薄っすらと恐怖感を覚える。
ここがどこなのか確認したいと思い、漆紀はゆっくりと立ち上がって警戒しながら前進する。
「なんだよここ……俺はどうなったんだよ? あの世なのか? わけわかんねぇよ」
注意深く歩いていると、何やら四角い影が見えて来た。少しづつ近付くとそれは木製の立て札である事が見て取れた。
「なんか書いてあ……ぇえ? 何これ……」
その立て札には確かに文字が書かれていた。その文字はまごう事なき日本語であるが、字体が明らかに現代のものではなかった。
流れるように連綿と、けれどどこか粗雑に書かれており、日本史の教科書で見る様な中世若しくは近世の日本の文字だと推測できた。
「読めねぇ。日本語なのに読めねぇよこれじゃ。古文苦手だしなぁ……ええと」
どうにかその立て札の最初の一文字目の漢字を読もうとし、それを口に出そうとした瞬間。
「先は武蔵大塚村、だ」
今まで何の音も無かった静寂の安心を壊すかの如く、背後から女の声が聞えて来た。
「誰だッ!?」
漆紀が振り返ると、濃霧の先に人影が見える。漆紀から見て人影程度でしか見えないのだ。その人影の人物からは立て札など読めないはずだし、仮に視界良好でも漆紀が邪魔で読めないのだ。
故に、最初から立て札の内容を知っている者であると漆紀はわかった。
「私が誰わからないの?」
そう聞いてゆっくりと人影は漆紀に一歩一歩近づいて来る。
「俺の妹にしちゃ綺麗な高音の声だな? あいつなら汚い高音しか出さないからな。声からして女だろうけど、俺の知り合いでお前の声のヤツなんかいないぞ」
漆紀は近付いて来る人影に警戒して構える。だが、ついに姿を現したソレは見知らぬ少女だった。
その姿形はとても神秘的で尊いと思える少女であった。白基調の衣の所々に赤色の細線が入った、どこか現代に繋がる巫女服を想起させる衣服であった。しかし普通の巫女服と決定的に違うのは袖や首回りや縁に竜の意匠が縫われている所だろうか。
同時に少女からはどこか人間として薄い印象を受けた。
「お前……名前は?」
「私に真名はないの。私は名無き者……あなたの名前は?」
「俺? 俺の名前は……」
自分の名を口にしようとしたが、その瞬間声がでなかった。何度も出そうと繰り返すが、何故か出せなかった。口は動くし喉も正常。けれど自分の名乗る声は響かなかった。
「やっぱり……あなたも名無き者なのね。きっと仮名は存るんでしょうけれど〝此処〟では真名しか名乗れないの」
「何を言ってるんだ? 名前がどうしたって言うんだよ」
「あなたは私と同じ、名無き者。それなら力を貸せる……ねぇ、あなたは今死にかけてるのでしょう?」
「死にかけてた筈なんだが、見ての通り傷がない。これは一体?」
「ここは現実ではない。けれど死にかけているあの世界も現実とは呼び難い」
「じゃあ、幻覚? 俺の見ている、単なる空想の夢か?」
「いいえ。言うなれば私の夢、私の世界……か。それで、現実であなたは死にかけているけど、どうする?」
「どうするもねぇよ。俺は死ぬつもりは無いし、どううりゃ助かるんだ?」
半ばヤケクソ気味に少女に問う漆紀であったが、少女は漆紀に近付くと漆紀の首元にある鉄塊の首飾りに触れる。
「この鉄塊こそが私……私はあなたが小さい頃からずっと傍にいた」
首飾りは鉄特有の反射光や金属光沢とは別の黄色の光を放ち、少女の手元も黄色く染まる。
「もし……あなたが正式に私の主になってくれるなら……あなたの傷を癒し、その体でもう一度立ち上がれるようにする」
この時不思議と、漆紀から恐怖心は一切消えていた。むしろ、目の前の少女の正体を心のどこかで理解し、なによりも深い感謝と暖かい慈愛を感じた。
「わかった。まだお前の事については気になるけど……話はあとだ。また、会えるよな?」
「あなたが望めば、夢枕に立つ」
そう言うと、少女は笑顔を見せる。全身が濃霧のように霧散して、少女はその姿を消した。
だが濃霧が晴れるとそこには一本の日本刀が無造作にも地に突き刺さっていた。
「お前……なのか?」
ゆっくりと近付くと、先程のように首飾りが黄色く光る。決して眩しくない、鈍い黄色が暖かくも日本刀との距離に反応していた。
漆紀が日本刀の柄を握った瞬間、霧の空間がより濃い霧となり、水となり、そして物理法則を無視した激流となって漆紀を飲み込んだ。
それでも柄からは手を放さず、そのまま流されるがままに激流に飲まれてどこかへと行った。




