第九十四話 旅行② ーはじめての湯船ー
南部フェカン地方の最大都市、フェカン。
地方の名前がそのまま都市の名前になっていることから、南部の代表的な都市だということがわかりやすい。
極彩色で彩られた街並みは、王都とは全く異なる文化を感じさせる。
そして何より。
「……暑い」
グリズリッドが天を仰いだ。
「ああ、忘れてました」
そう言って、クロトは印を切る。
「うっかり自分にだけ暑さ避けの結界を張っていました」
「お前……」
どうりで汗ひとつかかず、やけに涼しげだと思ったら。
グリズリッドはクロトを睨む。
暑さ避けの結界とやらはグリズリッドには見えないが、確かに膜が張られたかのように暑さと強い日差しが和らぐ。
「顔が、真っ赤ですね」
グリズリッドは肌の色が白い。
南国の日差しに当てられ、真っ赤になっている。
「……誰のせいだ」
おまけに滝のような汗。
「耐えられない」
ぼそりと呟き、グリズリッドは早足でクロトを引っ張った。
案内されたのは、王都のそれとはまた違う豪奢さを持つ建物だった。
黄色の石と色鮮やかな装飾が組み合わされた外観。
開け放たれた窓からは、海風がそのまま吹き抜けている。
「こちらへ」
従者に導かれ、部屋へ入る。
扉が閉まると同時に、外の喧騒が遠のいた。
広い室内。
大きな窓の向こうには、先ほど見た海がそのまま広がっている。
「……すごい」
思わず零れる。
「いいから湯浴みだ」
感想を遮るように言われ、クロトは我に返る。
「え」
「潮風と、汗と、このベタベタした感じがもう耐えられない」
心底気持ち悪そうに言うので、クロトは笑ってしまう。
「旦那様はこちら、奥様はあちらへどうぞ」
部屋には二つ浴室があるらしい。
言われた通りに二手に分かれる。
確かに海風に晒された素肌はべたつき、そこに砂が貼り付いて気持ち悪い。
「これもまた経験」
ふふ、とクロトは微笑んだ。
侍女から渡された日焼け止めはどうやら効果的面らしく、あれほど強い陽を浴びたのにほとんど日焼けをしなかった。
素早くドレスと下着を脱いだクロトは、浴室で水を呼び起こす。
水属性の魔導を用いて空中に大きな水球を作り出してから、火属性の魔導を加えて少し温める。
温めた水球を頭上に移動させ……それを破裂させた。
ばしゃんと音を立てて水が一気に滑り落ちる。
「大きすぎましたね……」
頭をさすりながら独り言を呟く。
そこに別の水音が聞こえ、クロトは動きを止めた。
そして首を捻る。
やけに音が近い気がする。
(まあ、気のせいですね)
脳内でそう片付けて、クロトは備え付けの洗髪剤を拝借する。
(わあ、よく泡立つ……)
王宮のものより、南国風な甘い香りがした。
すこし躊躇してから、身体もその泡で洗ってしまう。
再び水球を生み出し、破裂させ……クロトの湯浴みは終了だ。
ちらりと浴室の奥に目をやる。
奥の壁には扉があった。
なんの扉だろうか。
クロトはぺたぺたと足音をさせてそちらへ移動した。
扉を開けると、急に視界は真っ白に支配される。
温かい水蒸気の奥に、人工的な泉がある。
(湯を張っているのね……)
クロトは近づき、片足の足首だけ入れてみる。
湯の温度はそこまで熱くなかった。
(入れば良いのかしら)
意を決して湯に浸かってみる。
(疲れが取れそう)
肩まで浸かり、後頭部と背中を壁に預ける。
王都の人間はお湯に浸かる文化が無い。
初めての体験に、クロトは至福のため息を吐いた。
その時だった。
湯煙の奥に人影が揺らめいた。
幻かと重い、クロトは目を擦って目を細める。
水蒸気を纏って現れたのは彫像のような裸体が浮かび上がる。
大理石を削り出したような、無駄のない肉体に、クロトは息を呑む。
(何故、殿下がここに――)
内心焦りながらも、神話の男神の水浴びを覗き見ているような感覚に陥り、クロトはグリズリッドから目が離せない。視線を逸らすべきだとは思うのだが――。
幸か不幸か、グリズリッドはクロトに気が付いていない。
(今のうちに、静かに上がってしまいましょう……)
音を立てずに湯船から抜け出そうと、そーっと湯から身体を起こしたとき、グリズリッドが弾かれたように振り向いた。
青と群青の視線がぶつかり、グリズリッドはしばらく瞬きした。
「お前……っ」
そしてがくりと肩を落とす。
「息を潜めて覗くな!」
怒鳴られたクロトは湯に肩まで浸かって小さくなった。




