第九十三話 旅行① ーはじめての海ー
「海! あれ、海ですか?」
馬車の窓から見えた南国の海を見て、クロトは同じ色の瞳を輝かせた。
子どものように身を乗り出す。
――海の見える場所がいいね。
ユーリの声が遠くで重なり、クロトは一瞬息を呑んだ。
「ああ」
クロトは振り返る。
短い返事。
それだけなのに、安心する。
「殿下は……」
「殿下はやめろ」
クロトは、はたと止まる。
「そうでした、グリズリッド」
はにかむように、クロトは微笑んだ。
「フェカンには行かれたことがあるんですか?」
「視察と、遠征で何度か」
「そうですか」
「フェカンの炎竜は、まだ討伐してないんじゃないか」
「そうですね、炎竜はまだ暴れてませんので今のところは討伐対象外ですね」
馬車が止まる。
「着いたぞ」
先に降りたグリズリッドが、振り返る。
開かれた扉の向こうに、目が痛くなるほど鮮やかな空と海が広がっていた。
クロトは一瞬、言葉を失う。
「……降りないのか」
差し出された手に、視線が落ちる。
ほんの少しだけ、ためらう。
クロトはそっと、その手を取る。
引かれるままに、外へ降りた。
広がる白い砂に足をつける。
ドレスの裾が強い風に煽られてなびいた。
思わず帽子を押さえ、クロトは強い日差しに目を細める。
「……音、すごい」
思わず零れた声に、グリズリッドはわずかに目を細めた。
「そうか」
「こんなに大きな音なんですね」
言葉が追いつかない。
視界いっぱいに広がる海に、クロトは一歩踏み出す。
その瞬間――
ぐらりと足元が崩れた。
「っ――」
砂に足を取られ、身体が傾ぐ。
転びかけた体は腰を支えられ、すぐに戻された。
「気をつけろ」
短く言われて、手を引かれる。
「……はい」
素直に頷く。
握手のような形で繋がれた手は、いつのまにかするりと形を変えて互いの指を絡めた。
クロトは一瞬だけ目を瞬かせてから、小さく笑う。
「もっと近くに行ってもいいんですか?」
「もちろん」
波打ち際へと歩いていく。
さらさらと砂が足元で音を立てる。
歩くたびに沈み、よろよろと左右に体が揺れる。
「歩きづらいものですね……」
グリズリッドは目を細める。
無言でクロトを引き寄せ、有無を言わさぬ速さで抱き上げた。
「わ」
小さく声を上げ、クロトはグリズリッドの首に両腕を巻きつける。
「ありがとう」
耳をくすぐるような声。
グリズリッドはわずかに顔を動かす。
「私が言ったから連れてきてくれたのでしょう?」
その言葉をグリズリッドは鼻で笑った。
波打ち際に辿り着くと、そっと降ろされる。
寄せては返す波が、白い泡を残して消えていく。
クロトは少しだけ躊躇ってから、そっと手を伸ばした。
それを、舐める。
「へえ、本当にしょっぱいんですね」
「それはそうだろ」
興味深そうに身を屈めたところを、グリズリッドが嗜めた。
「おい、裾が……」
「え?」
何も考えずに腰を折ったクロトのドレスの裾が、盛大に海水に浸かる。
「あっ……」
しまった、と慌てて腰を浮かせて立ち上がろうとしたところを、狙ったかのように先ほどまでより強い波が来た。
「ひゃあっ」
太腿のあたりまで濡れたクロトが悲鳴を上げ、隣にいたはずのグリズリッドがそれを軽い動作で避けた。
「裏切り者……」
半眼で睨まれ、グリズリッドが笑う。
「間に合わなかった」
クロトは口を尖らせる。
「……もうこうなったら」
立ち上がったクロトが白い靴を脱いだ。
「どれだけ濡れても一緒です」
そう言って、波打ち際を裸足で歩いて行く。
波が足元をさらっていく。
どちらともなく再び指が絡む。
クロトの表情がふっと緩んだ。
「……楽しいですね」
「ああ」
波を見つめたまま、ぽつりと呟く。
その横顔を、グリズリッドはしばらく黙って見ていた。
「ちなみにそれ、後で後悔するんだ」
クロトが振り返る。
「どれですか?」
「裸足になったこと」
クロトは目を瞬く。
「どういうことですか?」
グリズリッドはにやりと笑う。
「帰り道にわかる」
淡々と返す声に、少しだけ肩の力が抜ける。
指を絡めたまま、二人はゆっくりと砂浜を歩いた。




