第九十一話 凍解 ー面倒な女ー
自分の執務室で緑のローブを脱ぎながら、クロトはぼんやり考えていた。
(ああいうの、いいな……)
脳裏に浮かぶのは、初々しい初デートの二人。
昼の光に照らされたテーブルと、互いを知らない男女のやり取り。
全てがきらきらして見えた。
クロトは思い出して満足気にため息を吐く。
「入るぞ」
ノックもせずに扉を開け、聴き馴染んだ声が背後に落ちる。
「ひゃわ!」
胸を潰すために巻いていたサラシを解く途中だったクロトが素っ頓狂な声を上げて前のめりに身を屈めた。
グリズリッドが目を細める。
「今更だろ」
その言葉にクロトは青い瞳を愕然と見開き、息を呑む。
(もう、そんな感じ……!?)
グリズリッドは脱がれた緑のローブに一瞥を送る。
「ああ、本当にやったのか」
冷めた顔でそう言って、グリズリッドは大股で近寄る。
「教会の査察、準備は整った」
ばさりと机に資料が置かれる。
「査察は明日だ。目を通しておけ」
それだけ言って、グリズリッドは颯爽と部屋を出て行った。
その悠然とした背中を茫然と見送って、クロトは小さく俯く。
確かに芽吹いた憧憬が、ぱきりと音を立てて霧散した。
◇◇◇
王太子夫婦の私的食堂にて、グリズリッドは首を捻っていた。
よっぽどのことがない限り、二人は夜の食事を共にする。
が、待てど暮らせどクロトが現れない。
嫌な予感しかしない。
(何かしたか?)
腕を組み、目を閉じたグリズリッドはうんうん考える。
(いつ? 昼過ぎに会ったあれか?)
ノックしなかったのがいけなかったか。
着替えのタイミングに入ったからか。
(……そんなに怒ることか?)
グリズリッドの眉間に皺が寄る。
腕を組んだ指先が、イライラと自分の腕を叩く。
痺れを切らしたグリズリッドが立ち上がる。
「面倒な女だ……」
◇◇◇
再び、ノックもせずに執務室の扉が開いた。
資料を読んでいたクロトが、静かに訪問者を見上げた。
「何か?」
静かに凍てつく声音。
グリズリッドは眉を吊り上げる。
「お前こそ何をしている」
あからさまに不機嫌なグリズリッドに、クロトはわずかに目を細める。
「昼過ぎにお持ちいただいた資料に目を通していました」
グリズリッドが口を開くより早く、クロトが続ける。
「午後は予定が立て込んでいたので、資料に目を通すのが遅くなりました」
丁寧な口調なのに冷たい。
「査察は、明日だと仰っていたので」
クロトは資料に視線を戻す。
「今目を通した方が良いかと」
一度を息を吐いて、改めて吸う。
「……それで」
明るい青の瞳が再びグリズリッドを射抜く。
「何かご用ですか」
それしきの睨みでグリズリッドは狼狽えない。
小賢しい猫が生意気に威嚇しているようにしか見えない。
「不満があるなら言え」
ため息を吐く。
「面倒だ」
クロトは一瞬固まり、俯いた。
「俺は超能力者じゃないんだ。お前の考えていることをいちいち察するのは――」
まずい。
息と共に言葉を飲んだグリズリッドが今度は固まる。
「おい」
慌てて大股で近寄る。
その足元に魔法陣が静かに広がった。
グリズリッドは目を見開き、頬を引き攣らせる。
ばきん、と乾いた音を立てて三本の巨大な氷柱がクロトを囲んだ。
これ以上近づくな、そんな声が聞こえて来るようだった。
ゆらりと俯いたままのクロトが立ち上がる。
魔力が身体から溢れ、長い白金の髪がぶわりと宙に舞い上がって大きく揺れた。
「……すみませんね、面倒で」
地獄の底から聞こえて来るかのような声音。
「少しレイドさんを見習ってはいかがですか?」
きっ、と睨んだ目尻に涙が滲む。
「レイド?」
あれの何を見習うことがあるのか。
グリズリッドにはさっぱりわからない。
首を傾げたグリズリッドを見て、クロトは眉を釣り上げた。
「殿下には一生わかりませんよ」
グリズリッドの右手の聖痕が光る。
触れただけで、クロトの作った氷柱を消失させた。
「クロト」
名前を呼び、グリズリッドは彼女の細い両肩を強く握る。
「頼む、何が言いたいのかだけでも教えてくれ」
「……デートしてください」
ずび、と鼻を啜る。
「――は!?」
グリズリッドは目を剥く。
いよいよわけがわからない。
「私だって二人で食事してみたいです〜」
めそめそ泣き始めたクロトに、グリズリッドは真剣な顔をした。
「何の話だ。してるだろ、いつも。今すぐ行こう」
「そうじゃなくて……食堂じゃなくて……」
言語化できないクロトに、グリズリッドは内心苛立つ。
「場所か? 場所の問題だな?」
早口で言われ、こくりとクロトが頷く。
「わかった、全然わからないけどわかったから」
雑に抱きしめられて、雑に後頭部を叩かれる。
本当にわかってもらえたのだろうか。
クロトは、そのまま目を瞬いた。




