第八十九話 休息 ー鞘となりましょうー
王宮の喧騒を離れ、長く冷たい回廊を抜ける。
螺旋の階段を最上階まで昇り詰めた先に、その場所はある。
魔導士の塔、最上階。
王国の守護の要であり、星の運行と魔力の潮流を観測するための、空に最も近い聖域。そこが、魔導士長クロトの執務室だ。
重厚な執務室の扉が閉まると、議場を支配していたあの張り詰めた空気は、嘘のように霧散した。
窓の外では黄昏時が始まり、茜色の光が室内の書棚を長く照らしている。
クロトは、入室した訪問者をちらりと見る。
疲れた顔を隠さないグリズリッドを認め、手元の書類に再び視線を落とした。
「やられましたね、殿下」
クロトの声は、慰めでも嘲りでもなく、ただ事実を整理するようにさらりと響いた。彼女は執務机の端に腰掛け、書類を整理する手を止めない。
「……やられた」
グリズリッドは、苛立ちを隠すように首元のタイを緩め、重い外套を脱ぎ捨てた。
椅子の背に投げ出されたその背中は、先ほどまでの王太子としての威圧感を削ぎ落とし、一人の疲れ切った男の輪郭を露わにしている。
「……だから、負けた分慰めてくれ」
クロトの手がぴたりと止まった。
「殿下が?」
目を瞬く。
「他に誰がいる」
むくれたような顔でグリズリッドは言う。
「政治で負けて、私に甘えに来る王太子殿下……」
クロトはふっと、悪戯っぽく、どこか慈しむように目を細めた。
静かに立ち上がると、ゆっくりと歩み寄ってグリズリッドの目の前に立つ。
空を思わせる青い瞳が彼を見下ろした。
「可愛いですね」
グリズリッドの思考が、その一言で完全に凍りついた。戦場でも議場でも動じなかった彼が、不意打ちの言葉に言葉を失い、微かに頬を染めて固まる。
「……何を」
「はい、どうぞ」
クロトは彼を促すように、部屋の隅にある長椅子へと腰を下ろした。そして、自身の太ももを軽く掌で叩く。
「こちらへどうぞ」
「……」
「今の貴方に必要なのは、休息です」
一瞬の逡巡。
自尊心と欲求がせめぎ合うような沈黙の後、グリズリッドは観念したように息をつき、素直に横たわった。
クロトの柔らかな腿の上に彼の頭が落ちる。
しばらくの間、部屋には時計の刻む音だけが流れた。
細い指が、グリズリッドの項から耳の後ろ、そして琥珀色の髪をゆっくりと、梳くように撫でていく。
「……くすぐったい」
「髪、さらさらです」
そう呟いてから、クロトはグリズリッドの胸にそっと手を置く。
ぽん。
ぽん。
赤子をあやすような一定のリズムで、彼女の掌が彼の胸板を軽く叩いていく。
「今日は、よく頑張りましたね」
その一言が、グリズリッドの耳を通り、胸の奥に澱んでいた焦燥を溶かしていく。
彼は目を閉じたまま、肺にある重い空気をすべて吐き出すように深い息をついた。
「……悪くない」
「そうでしょう?」
グリズリッドは何も言い返さず、ただその温もりに沈み込んだ。
「……俺が狂ったら」
クロトの手が、止まった。
「殺してくれ」
権利が収束しすぎている。
彼が反旗を翻せば、この国は一日で落ちる。
「俺より強いのは、この国でお前だけだ」
「……私が、あなたより?」
クロトは目を瞬く。
「お前の強さは、その精神だ。決して揺るがず、折れない。それに」
「俺は二度とお前に刃は向けられない」
「……あなたは狂いません」
静かな声音でクロトは言う。
「私が鞘になりますから」
再び、一定のリズムで彼の背中を軽く打つ。その柔らかな振動が、まるで重い鎧を一枚ずつ剥ぎ取っていくように、彼の強張った体を緩めていく。
やがて、グリズリッドの腕が伸び、クロトの細い腰を包み込むように回された。
すべての重みが、彼女に預けられる。
「ひとつ、思い出したことがあるんです」
「なんだ」
「あの王命零号に、生存個体三体、内適合体二体って書いてあったの、覚えてますか?」
「うん」
「私とナシェルが適合体で、もう一人生存した者がいるんです」
「うん」
「ユリクシスです」
「……うん?」
「ユリクシスと子どもの頃、あの研究所で会ったことがあるんです」
「兄上が……じっけん、たい」
半分寝かけたグリズリッドが身じろぐ。
「……は?」
目は閉じたまま、眉根が寄った。
「ユリクシスは……後で話します」
「ああ……頼む」
その声はもう、眠りの縁にいた。
やがて呼吸は規則正しくなり、部屋には穏やかな静寂が戻る。
クロトは、自分の膝の上で眠る男の顔を覗き込もうと、少し上体を屈めた。
けれど、彼の広い肩幅、自分の胸元に遮られて、肝心の顔が見えない。
「……見えませんね。残念」
小さく、独り言が漏れる。諦めきれずに少し上体をずらしてみるが、預けられた彼の全体重は思った以上に重く、身動きが取れない。
「……ダメですね、これは」
それでもクロトは、満足そうに彼の背を、ぽん、ぽんと叩き続けた。
「仕方ありません」
見えなくても、分かる。
眉間の皺が消え、無防備に、安心しきった顔をしていることくらい。
「おやすみなさい、……リズ」
小さく囁く。
そして、照れたように少しだけ笑った。
「私も、呼んでみたかったんです」
返事はない。
ただ、子どものように安らかな寝息がそこにあった。




