第八十八話 敗北 ー力の制限ー
議場は静まり返っていた。
王の玉座の下、半円に並ぶ重臣たち。
中央に立つのは王太子グリズリッド。
彼は一歩進み出ると、高らかに口を開いた。その手には、分厚い資料。
「本日議題としたいのは、王太子権限の縮小についてだ」
議場がざわつく。
「現在、私には過剰な権限が集中している。騎士団『蒼穹』、聖力、王太子権限、そして民衆の支持」
一つ、息を吐く。
「これらは本来、一人の人間が保有すべきものではない」
突然、一体何を言い出すのかと議会全体が狼狽え、ざわめき始める。
「理由がある」
どすんと音を立てて資料が卓に置かれた。
「聖力を一人の人間へと収束させ、王国の兵器とするための計画の記録……『聖力収束計画』という。聖力は、聖女から私へ継がれ、この計画通りとなった」
グリズリッドの言葉に、ざわめきは大きくなっていく。
「この計画は、王命零号と記されている」
最後の言葉に、一気に議場が静まる。
「聖力と軍事力が個人に収束したことにより、王家と教会の権限境界は曖昧になった。よって、力の使役に制限をかけたい」
誰もが理解している。
グリズリッドが彼自身のことを述べている。
「さすが王太子殿下、実に謙虚でいらっしゃる」
口を開いたのは、ユリクシス大公だった。
「王国は幸運でした。殿下が反逆者ではなく、民を救う英雄であったことに」
にこりと優美に微笑んだユリクシスの言葉に、議場は水を打ったように静まり返った。
グリズリッドは静かにユリクシスを見つめる。
「我々は殿下を信頼しております。それなのに殿下は十年後の危険を語るのですか」
首を傾げると、ラベンダーアッシュの髪がさらりと揺れる。
グリズリッドは眉一つ動かさない。
「私が死んだら?」
静かな声が議場に落ちた。
「病に伏したら? あるいは私が狂うか、次代の継承者が理性的でなかったら? 制度を善人を前提に作るのは危険だ」
くすりと、ユリクシスは優雅に笑った。
「危険を恐れるあまり、今ある安定を壊してはなりません」
緩く首を振る。
「この国には聖女は必要なくなった。なぜなら、神に近しい人間が誕生したからです」
議会から拍手が起こり、それはやがて大きな渦になる。
渦中で一人、グリズリッドだけが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
息子たちを静かに測っていた王が、ここでようやく口を開く。
「王太子、時期尚早だ」
短く、それだけ。
ガラン、と閉会の槌が鳴り響いた。
決着。否決ではないが、棚上げという名の処刑。
実質的な、グリズリッドの敗北だった。
ユリクシスは深く、恭しく一礼する。
「王太子殿下のお志は尊い。ですが、国は理想だけでは守れません。我々は陛下の治世の延長線上にある。いずれ時が来れば」
彼は決して、勝者の顔をしない。ただ、哀れな弟をいたわるような、完璧な聖者の微笑みを湛えていた。
グリズリッドは黙したまま、短く頷いた。
胸の中に渦巻くのは、怒りでも屈辱でもなかった。ただ、冷徹なまでの「理解」だった。
(正しさだけでは、人は動かない。人は理屈ではなく、安心に従う)
人心。
根回し。
そして何より変わることへの恐怖を飼いならす技術。
今の自分には、まだ足りない。
執務室に戻ったグリズリッドを、控えていた騎士団長レイドが、軽薄な笑みを浮かべて出迎えた。
「完全に負けましたねえ」
レイドは肩を竦める。
グリズリッドは外套を脱ぎながら答える。
「……いい勉強になった」
「へえ? 余裕ですね?」
「戦場なら、あの場で首を刎ねて終わりだ」
グリズリッドは机の上に拳を置き、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。
「ですが議場は違う」
「……ああ。首より先に、椅子を奪うらしい」
レイドが吹き出す。
「怖いですねえ、貴族ってのは」
グリズリッドは静かに目を細める。
「……いや、単純すぎた」
グリズリッドは静かに深い青の瞳を細める。
「レイド、俺が狂ったら……」
言いかけて、グリズリッドは言い淀む。
「え?」
「いや……なんでもない」
レイドは目を瞬き、首を傾げた。
(こいつに俺を殺すことは……無理だ。レイドは善人だ。忠臣だ。だが俺を止められない)
グリズリッドは真っ直ぐに歩き出す。
「殿下〜! どちらへ?」
最後に聞こえるレイドの声を置き去りにして、グリズリッドは執務室を出ると、魔導士の塔へ歩を進める。
(俺を止められるのは、この国で一人だけだ)




