第九話 孤児院
手綱がわずかに引かれ、馬が進路を変えた。
城門から離れ、賑やかな通りを外れていく。
石畳の音が少しずつ乾いたものに変わり、行き交う人の声も遠ざかっていった。
クロトは何も言わず、背筋を伸ばす。
背中越しに伝わる体温が、先ほどよりも強く感じられるのは、きっと気のせいではない。
街外れに近づくにつれ、家並みは低くなり、人影もまばらになる。
「ここか?」
小さな木造の平家の建物がぽつんと建っている。
孤児院の扉は、思っていたよりも軽い音を立てて開いた。
扉の内側に一歩足を踏み入れる。
空気が違った。
微かに残る、あたたかい気配がする。
床はきれいに掃かれている。
誰かが定期的に手入れをしているのだろう。
それでも、長い時間使われていない建物特有のひんやりとした静けさがあった。
視線を巡らせて――ふと、壁際で足が止まる。
低い位置に、いくつか刻みが残っていた。
背の高さを測った跡。
子どもの成長を記す印がたくさんある。
一本、二本。
不揃いで、少し曲がっている。
「……」
思わず指先でなぞる。
ナシェルの背の線もどこかにあるのかしら。
さらに奥へ進むと、小さな机があった。
子ども用にしては、丁寧に作られている。
引き出しが、ほんの少しだけ開いていた。
無断で触れるのは躊躇われたが、
なぜだか、そのままにしておけなかった。
そっと、引き出しを開ける。
中には、色褪せた紙切れが一枚。
拙い文字で、祈りの言葉が書かれている。
『みんなが、きょうも、あしたも、しあわせでありますように』
紙の端には、小さな花を押しつぶした跡が残っている。
乾いてほとんど色は失われているのに、形だけははっきりしていた。
クロトは、息を吸うのを忘れていた。
窓辺に目を向ける。
そこには、子ども用の小さな椅子が一つ。
背もたれに、紐が結ばれている。
白くなった紐の先には、
小さな木彫りの人形がぶら下がっていた。
祈るように手を組んだ少女の形。
粗削りで、決して上手とは言えない。
けれど、不思議と優しい。
「観光用の演出なんじゃないか」
グリズリッドの冷めた声が背後からしたので振り返る。
「子どもが作ったものかも知れないじゃないですか」
「見てみろ、木が新しい」
「……」
「何もなさそうだな」
それだけ言って、グリズリッドはくるりと踵を返した。
「もう」
あまりに夢のないグリズリッドに文句を言いつつ、ちょっと感傷的になりすぎていたと反省する。
この場所に、ナシェルはいた。
(誰かのために祈る前に、ここでただの子どもとして生きていたのでしょうね)
そう思った瞬間――
胸の奥が、ざわりと波立った。
――いる。
直感が、そう告げた。
息を潜めた、異物の気配。
クロトは、声を出すより早く身構えた。
動き出すのが僅かに遅く、後ろから肩を掴まれて引っ張られる。体のバランスが崩れると同時に、視界がグリズリッドの背中で塞がった。
クロトの頭を狙ったナイフは、グリズリッドの肩を掠めて土の壁に刺さった。
「護衛を守ってどうするんですか!」
クロトは悲鳴のような声を上げてから、グリズリッドの傷を塞ぐために右手をかざす。
淡い光がグリズリッドの肩を包み、裂けた布の下で血が止まった。
「魔導など施さなくていい。かすり傷だ」
天井の影がどんどん色濃くなり、ぼこぼこと形を隆起させながら盛り上がっていく。
「魔導士。この修道院を壊さず、あれを倒せ」
「承知いたしました」
天井の影は、ずるりと剥がれ落ちるように床へと降りる。
人の形をしているが、輪郭は曖昧で、顔がない。
影を依り代にした使い魔か。
広範囲は使えない。床も壁も壊せない。
ならば、切る。
「魔導、展開」
囁くように詠唱すると、魔力を右手の先の一点に集中させる。
きん、と金属のような音を立てて、右手の先に魔導の刃が
だが、影は逃げる。
机の下、椅子の脚、壁の刻みに沿って分散した。
「クロト」
懐かしい声にびくりと動きを止める。
動き回る影を見やる。
先ほどまで顔がなかった影は、聖女ナシェルを模っていた。
小動物を思わせる愛らしい顔は悲しそうにクロトを見つめ、懇願する。
「クロト、やめて」
クロトは歯噛みする。
「……ナシェルを愚弄しないで」
怒りと共に魔力が溢れ、髪が宙に浮かび上がる。
「魔導士、右だ」
グリズリッドの声が飛ぶ。
刹那、影が跳ねた。
クロトは一歩踏み込み、肩口から切りつける。
影は声もなく霧散する。
空気が、すっと軽くなった。
「お前も……ナシェルと知り合いだったのか?」
グリズリッドに声をかけられ、クロトは振り返り頷いた。
「……私もナシェルとは、友人でした」




