第八十五話 棺 ー人が下す裁きー
「……っ、ユーリ……!」
叫びは水晶に吸われ、白く曇って消えた。
クロトはラベンダーに敷き詰められた冷たい棺の中に横たわっていた。
甘く、保存された死の匂いが漂う。
まるで展示品のようだと思った。
「お目覚めですか――王太子妃殿下」
棺の外からひさしぶりに聞く声がして、息を呑む。
懐かしさと共に、底冷えするような冷たさを感じた。
「……随分早かったな。我が娘よ」
硬質な靴音が近寄る。
低く呟く声に、クロトは声の主を思い浮かべる。
「知らないままのほうが幸せだっただろうに」
整えられた白金の髪に、湖水を思わせる澄んだ青の瞳。
人形のように整った顔立ち、華奢な体躯。
「クロンクヴィスト、公爵……!」
娘に呼ばれた公爵は歪んだ笑みを浮かべた。
「随分他人行儀じゃないか、クロト」
その青い瞳に娘を愛しむ色など欠片もない。
怒りが、肺の奥で燃えた。
「……なんの真似ですか」
唇だけが、わずかに動く。
水晶の内側で、微かに魔力が震えた。
クロンクヴィスト公爵は顔を曇らせる。
「残念だよクロト。お前の魔力はそんなものではなかったのに」
ただ、自分が完成させた作品が、どれほど価値を上げたのかを測る鑑定士のような目だけがそこにあった。
「忌々しい……あの男」
あの男、が誰を指しているのかは明白だった。
「私の人生でお前が男に生まれなかったことだけが最大の汚点だ。クロト」
その瞬間、空間が軋んだ。
頭上の巨大なステンドグラスから、圧倒的な質量を持った白い光が降り注ぐ。
何度も何度も言われた言葉が、妙に懐かしく思えた。
「ならば――利用価値を最大化する」
教会の権威そのものを具現化したような、純度の高い聖力。逃げ場のない棺の中で、クロトはその光に押し潰されそうになる。
(聖力……!)
純度の高い、教会の中枢そのものの魔力。
――量で勝てない。
即座に理解する。
今のクロトの魔力量は、クロンクヴィスト公爵を明らかに下回っている。
正面衝突は無謀。
ならば。
クロトは、そっと目を閉じた。
聖力は魔力に付着し、それを侵食する性質を持つ。ならば、その重みを逆に利用すればいい。
クロトは自分の中から溢れ出そうとする魔力を、無理に押し止めるのをやめた。代わりに、極限まで細く、透明な糸のように伸ばしていく。
意識を尖らせ、棺の隙間から這い出たその糸を、公爵の放つ光の奔流へ、産毛が触れるほどの軽やかさで忍び込ませる。
それを悟らせぬよう、クロトはあえて挑発するように口を開いた。
「……こんなものですか」
声がかすかに震えた。
気取られないように、クロトは一拍置いて息を吸う。
「がっかりしましたよ、公爵閣下」
公爵の指先が、ぴくりと動いた。
その動きは怒りというより、価値が毀損されたときの苛立ちに近い。
「なんだと」
水晶の中で、クロトは薄く笑った。
「他者の人生を作品として扱えると信じている、増長した選民意識。我が父ながら、実に愚かです」
「……不出来な人形の分際で、言葉を覚えたか」
一瞬だけ、空気が止まった。
公爵の眉が、わずかに吊り上がる。魔力に怒りという明確な揺らぎが混ざった。
揺らぎは、なければ作ればいい。
その揺らぎこそが、激流の中に生まれた小さな澱みだ。
クロトは奪わない。弾かない。ただ、彼の魔力の癖をなぞり、そこに自分の糸を滑り込ませ、流れの向きをわずかに変える。
柔よく剛を制す。
強大な力が一点に集中したその瞬間、クロトは絡めた糸を、一気に引き絞った。
力を、反転させる。
公爵が自信を持って放っていた聖光が、主を裏切り、彼の背後で牙を剥く渦へと変わった。
「……っ!? なにを……!」
彼の足元が、彼自身の力によって揺らいだ。
棺の水晶に、ピシリと鋭い音が響く。
「自分の正しさに、溺れてください」
クロトが静かに告げた瞬間、行き場を失った聖光が逆流し、クロンクヴィスト公爵の周囲で暴走を始めた。
水晶の棺に無数の亀裂が走り、耐えきれず爆ぜる。
紫の花弁が、砕けた水晶と共に宙を舞った。
クロトは湿った床に膝をつき、大きく肩を揺らした。
肺に酸素を叩き込み、荒い呼吸を整える。
魔力量は足りない。
でも、戦い方は知っている。
神が沈黙し、運命を弄ぶというのなら。
その歪な連鎖を断つのは、神ではない。
裁きは、今ここで人が下す。




