第八十四話 追憶 ー空白の幼少期ー
窓もない、壁一面を覆う無機質なタイルに囲まれた部屋の隅で、クロトはうずくまるしか出来なかった。
この施設での生活は突然始まった。
ある日、使用人に手を引かれて馬車に乗せられ、着いた場所は日光の届かない地下。それから何日経ったのか数えるのを、クロトはとうにやめてしまった。
一体何をしているのかもわからない。ただ、定期的に処置室へ連れて行かれ、魔力回路を無理やり抉じ開けられるような激痛に耐える日々。全身の血管を沸騰した油が駆け巡るような感覚に、喉が潰れるまで叫んでも、白衣を着た大人たちは、冷めた目で記録をつけるだけだった。
ついに親に捨てられたのだと悟った。
魔力を持たない母はクロトを産んだとき、あまりの魔力の強さに彼女を抱けなかったという。産着ごと母の腕を焼き、そのとき負った火傷の跡は、社交界の華だった母の唯一の欠点となった。
鏡を見るたび、母は自分の腕の引き攣れを撫で、クロトを化け物を見るような目で睨んだ。
父は父で、魔導剣士の家系に生まれながら剣を握れぬ女の、持て余すほどの魔力を無用の長物と切り捨てた。
あの家に居場所はない。
だから、ここに捨てられた。クロトは人間としてではなく、処理しきれない危険物として、ここに投棄されたのだ。きっとここで殺される。
そう思って、冷たいタイルの床を這う虫を眺めていた。
「また、痛いことをされたの?」
顔を上げると、ラベンダーアッシュの髪を揺らし、天使のように微笑む少年がいた。
「……ユーリ」
彼はクロトよりも先にここにいた先輩だった。
他の子どもたちは、処置室から戻ってこなくなるか、戻ってきても数日で動かなくなる。
彼はひどく顔色が悪いのにも関わらず、いつも凛とした気品を纏ってクロトの前に現れた。
細く、透けるような白い手で、クロトの首筋に残る術式の傷跡をそっと撫でる。高熱に浮かされる彼女にとって、その手は心地よい冷たさだった。
「君の苦しみは、僕だけが知っている。外の大人は君を道具としてしか見ないけれど……僕は、君がちゃんと痛みを感じる人間だと知っているよ」
「……あなたは、私がこわくないの? 」
「怖い? まさか。他の子たちが君を避けるのは、君が特別すぎるからだよ。人は理解できないものを恐れるけれど、僕は違う。……だって、君と僕は同じだから」
少年の深い青の瞳には、共感と、そして底知れない孤独が宿っていた。
その言葉は、世界から拒絶されたクロトの胸の奥に、初めて灯った小さな光だった。
自分が自分であることを、初めて肯定された気がした。
彼だけが、クロトの一番痛いところを分かってくれる。唯一の理解者だった。
断片的な彼の言葉だけが、世界から拒絶されたクロトの胸の奥に、暗闇の灯火のように焼き付いている。
途切れる記憶。
垣間見える断片。
そう、この施設にはもう一人。
桜を溶かしたような銀髪に、オパールのような銀の瞳の少女がいた。
名を、ナシェル。
孤児院から連れてこられたという彼女は、恐怖のあまりいつも怯えて話さなかった。
部屋の隅で震える彼女は、ユーリにだけ言葉を紡ぐ。
不思議だった。
誰にでも優しいユーリが、ナシェルの前では少し違った。
咳をすれば誰より先に駆け寄り、
泣けば、ひどく悲しそうな顔をする。
ああ。
きっと、ユーリはナシェルが好きなんだ。
クロトは、ぼんやりとそう思っていた。
次に記憶が鮮明になるのは、いつだったか。
気づいた時には、突然ユーリの足は動かなくなっていた。
ベッドの上で微笑む彼の傍らで、ナシェルはまた泣いている。
「わたしのせい」
そう何度も呟いて。
何があったのか、クロトには分からない。
ただ、ユーリはそんな彼女の頭を優しく撫でて、「違うよ」とだけ言った。
「ねえ、クロト。いつか僕が、君を誰も知らない安全な場所へ連れて行ってあげる」
記憶の中の少年の声だけが、脳裏に浮かぶ。
「僕が君の外枠になって、君を一生守ってあげるからね」
外枠。
安全な場所。
今思えば気持ち悪い響きの言葉だが、あのときは心底安心した気がする。
「そう、例えば……海の見える場所がいいね。君はそこで、誰にも邪魔されずに好きなことをすればいい。僕はその隣で、君が淹れてくれたお茶を飲みながら本を読もう。……素敵だと思わない?」
ユーリは優雅に、けれどどこか儚げに微笑む。
「……僕はね、生まれつき心臓が弱いんだ。長くは、生きられないらしい」
彼の手が頬から首筋に滑り、ぐっと力がこもる。
癒やしの冷たさだったはずの手が、次第に万力のような、逃げ場のない拘束へと変わっていく。
「ユーリ……!」
優しいはずの少年の顔が、次第に現在の、あの庭園で出会ったユリクシスの、氷のように冷徹な大人の顔へと変貌していく。
『――おかえり、クロト。私の、夢』
ラベンダーの香りが、吐き気を催すほどの血の匂いに変わる。
視界が真っ赤な魔導文字に染まり、温室の景色が、まるで薄い硝子が砕けるようにバリバリと割れていった。




